れの場、乾坤の刀――とそれに!
 道場の壁に大きな貼り紙がしてある。
 勝った者へ弥生をとらせる! 先生のひとり娘、曙小町の弥生様が賭競《かけど》りに出ているのだ。なんという男冥利、一同こころひそかに弓矢八幡と出雲の神をいっしょに念じて、物凄い気合いをただよわせているのもむりではない。誰もが一様に思いを寄せている弥生、剣家の娘だから恨みっこのないように剣で取れ――こう見せかけながら、実は鉄斎の腹の中で技倆《うで》からいっても勝つべき若者――婿《むこ》として鑑識《めがね》にかなった諏訪栄三郎という高弟がひとりちゃん[#「ちゃん」に傍点]と決まっていればこそ、こんな悪戯《いたずら》をする気にもなったのだろうが、これは栄三郎を恋する娘ごころを思いやって、鉄斎老人が、父として粋をきかしたのだった。
「誰だ? お次は誰だ?」
 今まで勝ち抜いて来た森|徹馬《てつま》、道場の真中に竹刀を引っさげて呼ばわっている。いろんな声がする。
「かかれ、かかれ! 休ませては損だ」
「誰か森をひしぐ者はないか――諏訪! 諏訪はどうした? おい、諏訪氏!」
「そうだ、栄三郎はどこにいる!」
 やがてこのざわめきのなかに、浅黄|刺子《さしこ》の稽古着に黒塗《くろぬり》日の丸胴をつけた諏訪栄三郎が、多勢の手で一隅から押し出されると、上座の鉄斎のあから顔がにっこりとして思わず肩肘《かたひじ》をはって乗り出した。
 と、母家《おもや》と廊下つづきの戸の隙間に、派手な娘友禅がちらと動いた。
 栄三郎は、浅草|鳥越《とりごえ》に屋敷のある三百俵蔵前取りの御書院番、大久保藤次郎の弟で当年二十八歳、母方の姓をとって早くから諏訪と名乗っている。女にして見たいような美男子だが、底になんとなく凜《りん》としたところがあって冒《おか》しがたいので、弥生より先に鉄斎老人が惚れてしまった。
 ぴたり――相青眼《あいせいがん》、すっきり爪立った栄三郎の姿に、板戸の引合せから隙見している弥生の顔がぽうっと紅をさした。まだ解けたことのない娘島田を傾けて、袖屏風《そでびょうぶ》に眼を隠しながら一心に祈る――何とぞどうぞ栄三郎さま、弥生のためにお勝ちなされてくださいますよう!
 勝負は時の運とかいう。が、よもや! と思っていると、チ……と竹刀のさきが触れ合う音が断続して、またしいんと水を打ったよう――よほどの大仕合らしい。
 と、
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