ことはできるだけ控えたかった。
 しかし! 気はあせる。
 どうかして今宵の乾雲の秘密を瓦町へ未然にしらせなくては!
 と気が気ではないが、この場合、猛《たけ》りたっている鍛冶屋をなだめすかしておいて、そのまに身を抜いて浅草へ走るのが、唯一《ゆいつ》の道であると彼女は考えているのだった。
 けれど! かじ富の煩悩《ぼんのう》の腕は、払ってもはらっても伸びてくる。
 たまらなくなったお艶、いっそ人眼でもあったら一時のしのぎになるだろう――と!
 逃げながらサラリ、二階縁の障子をあけたから、ぱっと流れる灯のなかに、座敷着も崩れてホンノリ上気したお艶のすがたが……。
 そしてばったり栄三郎と眼があった。

 瞬間!
 栄三郎は、歩き出していた。
「泰軒先生! よしないものに足をとめて、チッ! けがらわしい図を見せられましたな。いざ、どこへなりとお供つかまつりましょう」
 と! 同時に。
 ぴしゃり、二階に音あり……お艶は早くも障子を閉《し》めた。
 二階を走り出たとっさの光線を全身に浴びた栄三郎――それは昼間のべに[#「べに」に傍点]絵売りの風俗ではなく、本来の浪人風に返ってはいたが、いずれにしてもお艶にとっては、会わぬ日のつもるにつれて、夢にだに忘れたことのない恋人栄三郎であった。
 栄三郎様に泰軒先生!
 と見てはっとしたお艶、みずからのすがたを恥ずるこころが先立って、気のつくさきにもう障子を閉《と》ざしていたのだったが、遅かった。
 泰軒、栄三郎がお艶をみてとったのはもとより、すこし隔ててうかがっていた弥生にも、刹那《せつな》にして消えた二階の芸者が、意外にもお艶であることは一眼でわかった。
 奇遇――といえば奇遇。
 それはまことに思いがけない出会いであった。
 無数の青蛾《せいが》が羽をまじえて飛ぶと見える月明の夜半である。
 ところはお山開きの賑いも去った深川富ヶ岡八幡の境内。
 一道のひかりの帯が半闇に流れて、何か黄色い花のように、咲いたかと思うと閉じたとたんに……見あげ見おろした顔であった。
 一度は、否、今まで、たがいに死をもって心中ひそかに慕いしたわれているお艶栄三郎である。
 ただその恋情を、世の義理のためにまげているお艶と、男の意地、刀の手まえわれとわが胸底をいつわりおさえなければならぬ栄三郎と、世にかなしきはかかる恋であろう――。
 最初、栄三郎
前へ 次へ
全379ページ中297ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング