ははあ、一見役人とまがうこしらえの者が金につまっての斬り奪《と》り沙汰――誰じゃナ? 蒲生心当りはないか」
泰軒を顧みた忠相の眼《まな》じりに、こまかい皺がにこやかにきざまれている。
「役人……と申すと、与力か」
「さよう。八丁堀、加役のたぐいであることは言うまでもあるまい」
「役人に似た侍が追いおとし――コウッと、待てよ……」
首をひねった泰軒、即座に思い起こしたのは去秋お蔵前正覚寺門まえにおける白昼の出来ごと!
「おお! アレか!」
と口を開こうとした泰軒、忠相、急遽手を上げて制した。
「名は言うな! 先方も直参《じきさん》の士、確たる実証の挙がるまでは、姓名を出すのも気の毒じゃ、万事、貴様とわしの胸に、な、わかっておる、わかっておる!」
狐につままれたようにお艶がキョトンとしていると、忠相と泰軒、やにわに大声を合わせて笑い出したのだった。
春とは言え。
まだ膚《はだ》さむい早朝……。
雨後の庭木に露の玉が旭《あさひ》に光って、さわやかな宙空に、しんしんと伸びる草の香が流れていた。
ぼちゃりと池に水音がはねると、緋鯉《ひごい》の尾が躍って見えた。雨戸を繰《く》らないお屋敷のまわり縁に夜の名残りがたゆたって、むこうの石燈籠《いしどうろう》のあいだを、両手をうしろにまわし庭下駄を召して、煙のようにすがすがしいうす紫の明気をふかく呑吐《どんと》しながら、いったり来たりしている忠相のすがたを小さく浮かび出している。
日例のあさの散策。
遠くの巷は、まず騒音に眼ざめかけていた。
射るような太陽の光線が早くも屋根のてっぺんを赤く染めはじめて、むら雀の鳴く声がもう耳にいっぱいだ。
が、忠相は、朝日や雀とともにこの新しい一日をよろこび迎えるには、あまりに暗いこころに沈んでいるのだ。
大工伊兵衛の横死――。
それがかれの脳裡《のうり》を去らない。
一町人が邪剣を浴びて凶死《きょうし》した……それだけのことではすまされないものが、なんとなく奉行忠相の胸にこびりついて離れないのである。
――おそかった。
――手ぬかりだった。
忠相はこうしみじみと思う。
いずれはかかることをしでかすやつとにらんで、とうからそれとなく見張っておったに……早く手配《てくばり》をして引っくくってしまわなかったのが、返すがえすもわしの落ち度であった。
申しわけない!
前へ
次へ
全379ページ中278ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング