拙者の名をいえ!」
「はい。それはもう、よく承知いたしております。ヘヘヘヘ、若殿様で――」
「だまれッ! 侍の懐中物に因縁《いんねん》をつけるとは、貴様、よほど命のいらぬ奴とみえるな」
「と、とんでもない! 手前はただ……」
「よし! しからば両口屋へ参ろう、同道いたせ」
 と! 踏み出した栄三郎のうしろから、こと面倒とみてか、男が美《い》いだけの腰抜け侍とてんから呑んでいるつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉、するりとぬいだ甲斐絹《かいき》うらの半纒《はんてん》を投網《とあみ》のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。

 来たな!
 と思うと、栄三郎は、このごまの蠅《はえ》みたいな男の無鉄砲におどろくとともに、ぐっと小癪《こしゃく》にさわった。同時に、おどろきと怒りを通りこした一種のおかしみが、頭から与吉の半纒をかぶった栄三郎の胸にまるで自分が茶番《ちゃばん》でもしているようにこみ[#「こみ」に傍点]上げてきた。
 ぷッ! こいつ、おもしろいやつ! というこころ。
 で、瞬間、なんの抵抗《あらそい》も示さずに、充分抱きつかせておいて、……調子に乗りきったつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉が、
「ざまあ見やがれ、畜生! 御託《ごたく》をならべるのはいいが、このとおり形なしじゃあねえか」
 と!
 見得ばかりではなく、江戸の遊び人のつねとして、喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように絹裏《きぬうら》を張りこんでいる半纒に、栄三郎の顔を包んで一気にねじ倒そうとするところを――!
 するりと掻いくぐった栄三郎。ダッ! と片脚あげて与吉の脾腹《ひばら》を蹴ったと見るや、胡麻《ごま》がら唐桟《とうざん》のそのはんてん[#「はんてん」に傍点]が、これは! とよろめく与吉の面上に舞い下って、
「てツ! しゃらくせえ……!」
 立ちなおろうとしたが、もがけばいっそう絡《から》みつくばかり。あわてた与吉が、自分の半纒をかぶって獅子《しし》舞いをはじめると……。
「えいッ!」
 霜の気合い。
 栄三郎の手に武蔵太郎が鞘走って、白い光が、横になびいたと思うと、もう刀は鞘へ返っている。
 血――と見えたのは、そこらにカッと陽を受けている雁来紅《はげいとう》だった。
 門前、振袖銀杏のかげからのぞいていた源十郎は、この居合抜きのあざやかさに肝《きも》を消して、もとより与吉は真っ二つに
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