るだけ……いつになくいささか不平らしい。
 この室内のふたりのところからは縁のむこうの土にすわっているお艶の姿は見えないけれど、お艶はクンクンという異様な音にかすかに顔をあげてみて、見たこともない大きな黒犬が身近く鼻を鳴らしているのに気がつくと、怖《こわ》さのあまり、思わず声をあげて飛びあがろうとするのを、ぐっとおさえて再び平伏した。
 が、よく馴れている犬。
 べつに害をしそうもないのに安心して、お艶がほっと息を洩らしたときだ。
 部屋のなかでは、忠相が威儀《いぎ》をただして、小高い膝頭をそろえたまま庭のほうへ向けたらしい。すわりなおす衣《きぬ》ずれの音がして、やがて、
「黒! ここへ来《こ》い!」
 りんとしたお奉行さまの声。
 犬は無心に耳を立てて、お答えするもののごとく口をあけた……わん! うわん! わん!
「おお、そうか――」
 とにっこりした越前守、チラとかたわらの泰軒へすばやい一|瞥《べつ》をくれながら、
「来い! あがってこい! 黒……」
 犬はただしきりに首をねじまげて、肩のあたりをなめているばかり――神のごとき名判官の言葉も畜生のかなしさには通じないとみえて、お愛想どころか、もうけろりとしている。
 それにもかかわらず忠相は大まじめだった。
 いくら愛犬とは言いながら、ほんとに黒を茶室へ呼びあげる気なのだろうか……忠相は、キチンと正座して縁先へ向かい、眉ひとつ動かさずに命ずるのだった。
「やよ、黒、あがれと申したら、あがれ!」
 そして、まるで人間にものいうように、
「さ、早うあがってここへはいれ。人に見られてはうるさい。チャンとあがったら後ろの障子をしめるのじゃ、はははははは」
 うむ! と、これで初めて気のついた泰軒も、乗りだすようにそばから声を合わせて、
「黒、あがれ!」
「黒よ、早く室内《なか》へはいれ!」
 と口々のことば……
 つまらなそうに地面をかぎながら黒が立ち去っていったあとまでも忠相と泰軒の声は交《かた》みにつづく。
 黒! あがれ! あがれ、遠慮をせずに――と。
 ハッと胸に来たお艶。
 これはテッキリ大岡様が犬に事よせて自分を呼び入れてくださるのではないかしら? もったいなくも八代様のお膝下をびっしりおさえていかれる天下のお奉行さま、一介の町の女のわたしずれに公然に同座を許すわけにはゆかないので、黒を使ってくだしおかれるあ
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