を痩狗《そうく》の形にやつ[#「やつ」に傍点]して、お江戸八百八丁の砂ほこりに、雨に、陽に、さらさなければならなかったか。
 そこには、何かしら相当の原因《いわく》があるはず。
 珍しく正座した左膳の態度につりこまれて、源十郎の顔からも薄笑いが消えた。
 二人を包む深沈《しんちん》たる夜気に、はや東雲《しののめ》の色が動いている。
 ただ廊下に立ち聞くおさよは、相馬中村と聞いて、危うく口を逃げようとしたおどろきの声を、ぐっ[#「ぐっ」に傍点]と両掌《りょうて》で押し戻した。
 六万石相馬様は外様衆《とざましゅう》で内福の家柄である。当主の大膳亮は大の愛刀家――というより溺刀《できとう》の組で、金に飽かして海内《かいだい》の名刀|稀剣《きけん》が数多くあつまっているなかに、玉に瑕《きず》とでも言いたいのは、ただ一つ、関七流の祖|孫六《まごろく》の見るべき作が欠けていることだった。
 そこで、
 どうせ孫六をさがすなら、この巨匠が、臨終の際まで精根を涸《か》らし神気をこめて鍛《う》ったと言い伝えられている夜泣きの大小、乾雲丸と坤竜丸《こんりゅうまる》を……というので、全国に手分けをして物色すると、いまその一腰《ひとふり》は、江戸根津権現のうら曙の里の剣道指南小野塚鉄斎方に秘蔵されていると知られたから、江戸の留守居役をとおして金銀に糸目をつけずに交渉《あた》らせてみたが、もとより伝家の重宝、手を変え品をかえても、鉄斎は首を縦にふらない。
 とてもだめ。
 とわかって、正面の話合いはそれで打ち切りになったが、大膳亮の胸に燃える慾炎は、おさまるどころか新たに油を得たも同様で、妄念は七十六里を飛んで雲となり、一図に曙の里の空に揺曳《ようえい》した。
 物をあつめてよろこぶ人が、一つことに気をつめた末、往々にして捉われる迷執《めいしゅう》である。業火《ごうか》である。
 領主大膳亮が、あきらめられぬとあきらめたある夜、おりからの闇黒《やみ》にまぎれて、一つの黒い影が、中村城の不浄門《ふじょうもん》から忍び出て城下を出はずれた。そのあくる日、お徒士《かち》組丹下左膳の名が、ゆえしれず出奔した廉《かど》をもって削られたのである。
 血を流しても孫六を手にすべく、死を賭した決意を見せて、不浄門から放された剣狂丹下左膳、そのころはもう馬子唄のどかに江戸表へ下向の途についていた。
 おもて
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