ではないか」
 すると左膳は、得意らしく口尻をゆがめたが、
「ほかに誰もおらんだろうな?」
 と事々しくそこらを見まわすと、思いきったように膝を進めて、
「なあ鈴川、いやさ、源的、源の字……」
 太い濁声《だみごえ》を一つずつしゃくりあげる。
「なんだ? ものものしい」源十郎は笑いをふくんでいる。「それよりも貴公色男にはなりたくないな。先刻までお藤が待ちあぐんで、だいぶ冠を曲げて帰ったぞ、たまには宵の口に戻って、その傷面を見せてやれ、いい功徳《くどく》になるわ。もっともあの女、貴様のような男に、どこがよくて惚れたのか知らんが、一通り男を食い散らすと、かえって貴様みたいな人《にん》三|化《ばけ》七がありがたくなるものと見えるな。不敵な女じゃが、貴様のこととなるとからきし意気地がなくなって、まるで小娘、いやもう、見ていて不憫《ふびん》だよ。貴様もすこしは冥加《みょうが》に思うがいい」
 源十郎の吹きつける煙草の輪に左膳はプッ! と顔をそむけて、
「四更《しこう》、傾月《けいげつ》に影を踏んで帰る。風流なようだが、露にぬれた。もうそんな話あ聞きたくもねえや。だがな鈴源、俺が貴様ん所に厄介になってから、これで何月になるかなあ?」
「今夜に限って妙に述懐めくではないか。しかし、言って見ればもうかれこれ半|歳《とし》にはなろう」
「そうなるか。早いものだな、俺はそのあいだ、真実貴様を兄貴と思って来た――」
「よせよ! 兄と思ってあれなら弟と思われては何をされるかわからんな。ははははは」
「冗談じゃあねえ。俺あ今晩ここに、おれの一身と、さる北境の大藩とに関する一大密事をぶちまけようと思ってるんだ」
 前かがみに突然陣太刀作りの乾雲丸《けんうんまる》を突き出した左膳。
「さ、此刀《これ》だ! 話の緒《いとぐち》というのは」
 と語り出した。源十郎が、灯心を摘んで油をくれると、ジジジジイと新しい光に、濃い暁闇《ぎょうあん》が部屋の四隅へ退く。が、障子越しの廊下にたたずんでいる人影には、二人とも気がつかなかった。
 左膳の言葉。
 この風のごとき浪士丹下左膳、じつは、江戸の東北七十六里、奥州中村六万石、相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》殿の家臣が、主君の秘命をおびて府内へ潜入している仮りの相《すがた》であった。
 で、その用向きとは?
 れっき[#「れっき」に傍点]とした藩士が、なぜ身
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