、そいつが皆目《かいもく》わからねえ」
「火事装束? へんな話だね。なんにしても押し迫ってから物騒《ぶっそう》な」
「さいでげす。でね、その野郎は眼を皿のようにしてかぎまわっているんですがね、さあ、口裏をひいてみるてえと、こんなこたあ大きな声じゃ言えねえが、どうも鈴川様はだいぶお上《かみ》に眼をつけられてるらしいね。ことによると近々お手入れがあるか知れねえと。いや、これあね、わたし一人の考えだが、ははは……ね、とまあ、言ったような次第さ。どうしたもんでごわしょう?」
「事件が起こったあとじゃあ、おさよさんもかわいそうだし――」
「それに、係りあいでこちとらの名が出るようなこたあまっぴらだ」
「ようがす!」喜左衛門は考えていた腕をほどいて、
「お前さんも、今のところ乗りかけた船でしかたがねえとあきらめて、どうだね、せわしい身体だろうが、一つこれから私といっしょに本所に出向いてくれませんかい……おい! 婆さんや、あっちの羽織《はおり》を出してもらおう。ちッ! 用のある時はきまってそこらにいやあしない。いい年をしやがって、あんな金棒引《かなぼうひ》きもないもんだ。ばあさん!――しようがねえなあ。婆あッ!」
 家主喜左衛門、だんだんカンカンになって、ポッポと湯気をあげている。

 客――でもないが、鍛冶屋富五郎が来ているあいだに、ちょっと家のまえの往来でも掃《は》いておこうと、喜左衛門の女房は箒《ほうき》を持って表へ出た。
 いいお天気。
 日の光が町全体に明るく踊って、道ゆく人の足もおのずから早く、あわただしい暮れの気分を作ってるなかにも、物売りの声がゆるやかに流れて、徳川八代泰平の御治世《ごじせい》は、どこか朗《ほが》らかである。
 歳《とし》の市《いち》へ、伐《き》り出した松を運ぶ荷車が威勢よく駈けて通る。歳暮の品を鬱金木綿《うこんもめん》の風呂敷《ふろしき》に包んで首から胸へさげた丁稚《でっち》が浅黄の股引《ももひき》をだぶつかせて若旦那のお供《とも》をしてゆく。
「おばちゃん……」
 という声に振り返ると、長屋の由《よし》公がお袋《ふくろ》に手をひっぱられて横丁の人|混《ご》みに消えるところだった。その母親の白い顔が笑って、何かそそくさと挨拶をしたようだった。
 泣いても笑ってもあと何日――町へ出てみると、しみじみとそんな気がするのだった。
 そうだ。気は心だから
前へ 次へ
全379ページ中129ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング