がてわれに返って気がついてみると、吸われるように立ち寄っていたが、あの、思い出すさえ嬉し恥ずかしい首尾《しゅび》の松……。
おお、そうだ! 泰軒先生におすがりして! と、黒い河水にのまれた三つの小石、暗《やみ》にも白い手が袖口にひらめいて。
ポトン! ポトンポトン!
苫《とま》をはぐって一艘の舟から現われた泰軒は、お艶のその後のとらわれの次第、場所、そしてそこに乾雲丸をもつ隻眼隻手の客丹下左膳がひそんでいることなどを話したのち、せきこんで栄三郎様は? とたずねると、泰軒は平然と、かれは田舎《いなか》にいるから二人この足で押しかけよう――こう言っていきなり歩き出したのだった。
貧乏徳利をさげた乞食と服装《なり》ふりかまわぬ若い女……それは奇妙な道行きであった。
で。
さっきから無言に落ちて、あらぬ空想《おもい》に身をまかせていたお艶が、怒りと悲しみに思わず眼を上げて薄明のあたりを見まわすと、
「あれ! あれが仕置《しお》き場《ば》だ」という泰軒の声。
「まあ! こわい……」
「はははは、だから、急ぐとしよう」
が、泰軒はぴたッと立ちどまって、うしろのお艶をかばうようにかまえた。
田圃《たんぼ》にはさまれた杉|並木《なみき》。
ほのかに白い道のむこうに、杉の幹にはりついて黒い影がある。
と、お艶の忘れられない若々しい詩吟の声が、ゆく手の半暗をさいて流れて来た。
「日暮《にちぼ》、帰りて剣血《けんけつ》を看《み》る」
坤竜丸、夜泣きの脇差の秘告《ひこく》であろうか。
平巻きの鞘が先へさきへと腰を押すような気がして、ただじっとしていられなかった栄三郎が、明けから江戸の町をあるくつもりで千住街道を影とふたりづれで小塚原の刑場へまで来ると――。
眼のすみを横切って、ちらと動いたものがある。それが、右に立ち並ぶ木の根を離れたかと思うと、タッタッ! と二足ばかり、うしろに迫る人の気配を感じて、栄三郎は振り返った。
その時。
長星。闇黒に飛来して、刃のにおいが鼻をかすめる。来たなッ! と知った栄三郎、とびさがれば斬尖《きっさき》にかかる――ままよ! とかえって踏みこんでいったのが、きっぱりと敵の体に当たって、栄三郎は何者とも知れない覆面の剣手をつかんでいた。
それが、左腕の片手!
刀は乾雲丸……きょうが日まで捜しあぐんでいた丹下左膳だ。
「これ! 乾
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