「さ、老役《ふけやく》には持ってこいだ。な、よろしく謝《あやま》ってやれ」
 ささやかれたおさよ、恐怖に気も顛倒《てんとう》して左膳の顔を見ないように、口のなかでごもごも言ってやつぎばやに頭をさげると、左膳は、「うるせえッ! 婆あの出る幕じゃねえッ」と一|喝《かつ》し去って、おさよを越えてうしろの源十郎へ皮肉にからんできた。
「鈴源! 貴様は昼も晩も納戸《なんど》の女にくッついてるんじゃねえのか。珍しいな出てくるとは――どうだ、あの女はお艶と言ったなあ、うまくいったか」
 あざけりつつ、そろりそろりと室内へ引き返す左膳を、源十郎は眼で追って、さもお艶との仲が上首尾らしく、色男ぶった薄わらいをつづけていると、
「おれの女はこれだッ!」
 と、左膳はやにわにお藤を蹴返して、
「こらッ、お藤! 誰のさしがねで刀のさまたげをしたか、それを吐《ぬ》かせ!」
 叫びざま左手に髪を巻きつけて引きずりまわす――が、この狂乱の丹下左膳に身もこころも投げかけているかのように、お藤は蒼白の顔に歯を食いしばって、されるがまま、もう声を立てる気力もないのか、振りほどけた着物をなおそうともしないで、ただがっくりと左膳の脚にとりすがっている。
 この日ごろの打擲《ちょうちゃく》に引きむしられた頭髪がちらばって、部屋じゅうに燃える眼に見えぬ執炎業火《しゅうえんごうか》。
 あまりの態《てい》におさよはすべるように逃げて行ったが、来てみて、思った以上の狼藉《ろうぜき》に胆を消した源十郎、お藤に対してももはや黙っていられないと駈けあがろうとした時!
 阿修羅王《あしゅらおう》のごとく狂い逆上した左膳が、お藤の手をねじあげて身体中ところ嫌わず踏みつけるその形相《ぎょうそう》に! 思わずぎょっとして尻《しり》ごみしていると、陰にふくんだ声が惻々《そくそく》として洩れてきた。
「殿様かい?」
 お藤が、左膳の足の下から、顔をおおう毛髪を通して源十郎へ恨《うら》みの眼光《まなざし》を送っているのだ。
「へん! 殿様がきいてあきれらあ! あたしの念《おもい》を届けてやるからそのかわり隙《すき》をうかがってお艶と見せて舟へ転げこんでくれ――あとのことは悪いようにはしないから、なんてうまいことを言ったのはどこの誰だい」
 源十郎はあわてた。
「これお藤、貴様、のぼせて、何をとりとめもないことを……」
「だまれッ、源
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