に帰る……」
「野花啼鳥《やかていちょう》一般《いっぱん》の春《はる》、か」
 と忠相がひきとると、ふたりは湧然《ゆうぜん》と声を合わせて笑って、切りおとすように泰軒がいった。
「おぬしも、まだこの心境には遠いな」
 さびしいと見れば、さびしい。
 ことばに懐古の調があった。秋夜孤燈《しゅうやことう》、それにつけても思い出すのは……。
 十年一むかしという。
 秩父《ちちぶ》の山ふところ、武田の残党として近郷にきこえた豪族《ごうぞく》のひとりが、あてもない諸国|行脚《あんぎゃ》の旅に出でて五十鈴《いすず》川の流れも清い伊勢の国は度会《わたらい》郡山田の町へたどりついたのは、ちょうど今ごろ、冬近い日のそぼそぼ[#「そぼそぼ」に傍点]暮れであった。

 外宮《げくう》の森。
 旅人宿の軒行燈に白い手が灯を入れれば……訛《なま》りにも趣《おもむき》ある客引きの声。
 勢州《せいしゅう》山田、尾上《おのえ》町といえば目ぬきの大通りである。
 弱々しい晩秋の薄陽がやがてむらさきに変わろうとするころおい、その街上《まち》なかに一団の人だかりがして、わいわい罵《ののし》りさわぐ声がいやがうえにも行人《こうじん》の足をとめていた。
 往き倒れだ。
 こじきの癲癇《てんかん》だ。
 よっぱらいだ。
 いろんな声が渦をまく中央に、浪人とも修験者《しゅげんじゃ》とも得体の知れない総髪《そうはつ》の男が、山野風雨の旅に汚れきった長半纒《ながはんてん》のまま、徳利を枕に地に寝そべって、生酔いの本性たがわず、口だけはさかんに泡といっしょに独り講釈をたたいているのだった。酒に舌をとられて、いう言葉ははっきりしないが、それでも徳川の世をのろい葵《あおい》の紋をこころよしとしない大それた意味あいだけは、むずかしい漢語のあいだから周囲の人々にもくみ取ることができた。
 代々秩父の山狭《さんきょう》に隠れ住む武田の残族《ざんぞく》蒲生泰軒。
 冬夜の炉辺《ろへん》に夏の宵の蚊《か》やりに幼少から父祖古老に打ちこまれた反徳川の思念が身に染み、学は和漢に剣は自源《じげん》、擁心流《ようしんりゅう》の拳法《けんぽう》、わけても甲陽流軍学にそれぞれ秘法をきわめた才胆をもちながら、聞き伝えて、争って高禄と礼節をもって抱えようとする大藩諸侯の迎駕《げいが》を一蹴して、飄々然《ひょうひょうぜん》と山をおりたかれ泰軒は
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