知ってる秘密を享楽《きょうらく》するのにいっぱいだった。
 世の中には変なこともあるものだなあ。
 人間すべきものは長生だ。
 あの女は海から来て海へ帰るらしい。
 さてこそいつも濡れているわけだて。
 和泉屋は何もかも忘れてただこの白装束の女への不気味な興味ではち[#「はち」に傍点]きれそうだった。
 で、つけだしてから五日めの晩、例によって海岸の松のかげから女を見ていると、何を思ったか、女は浪打際でくるり[#「くるり」に傍点]と踵を廻らして、つかつかとその松の木の下へはいって来た。
 透かすようにして和泉屋を見つめている。
 おやじはあわてた。逃げようにも足が動かない。まごまごしていると、女が銀鈴のような声を出した。
「酒屋の主人《あるじ》であろう。このごろそなたがわたしをつけていることは早くから知っておりましたぞ。なろうことなら隠しておきとう思うたが、それも今は詮《せん》ないこと。そなたはわたしを何と思いやる?」
 おそろしく時代なせりふだが、とにかくそんなような意味のことをいったのだろう。
「へへっ。」
 和泉屋、だらしなく砂へ両手を突いた。女が訊いている。
「何と思いやるのう?」
「へえ――。」
「へえ[#「へえ」に傍点]ではわからぬ――わしは人間ではないのじゃ。」
 なるほど海の女の声は人間離れがしている。
「え?」
 とおやじは思わず顔を上げた。水を背にした女の肩に、夜の空あかりが落ちている。さらさらと砂の崩れる音がしたのは、女が一足近づいたからだ。
「人間ではない。わしは竜神の使女《つかいめ》なのじゃ。」
「あの、竜、竜神さまの――。」
「さようじゃ。竜神の使女が君の召す御酒を購《あがな》いに、夜な夜な人体をかりて陸に上るのですぞ。」
「へへっ。それは大変な。まことにありがとうござります。そういうお方とも存じませずお後を窺《うかが》いまして――どうぞ無礼のほどはひらに御勘弁を。」
 和泉屋の額部《ひたい》に砂がついた。が、女はそれには何とも答えないで縷々《るる》としてつぎのようなことをいいだした。
 なんでもかの女の主君、すなわち竜神様は大分口が奢っているとみえ、海の底でどうしてお燗《かん》をつけるのか知らないが、和泉屋の上酒を熱燗で一ぱいきゅうっ[#「きゅうっ」に傍点]と引っかけなければ御意に召さない。それでこの女が毎夜ああして小買いに来たわけだが、あまり酒の味が好いので、竜神さまこのところすっかり嬉しがってしまい、近いうちに自身陸へ上って和泉屋を訪れ、いまだ人界に知られていない家業繁昌の秘法を親しく主人に伝授したい希望を側近の者に洩らしているとのこと。
 と聞いて、今度は和泉屋が嬉しがった。どうかいつでもお越を願います。と女に頼んでみると、善は急げというからしからば明晩がよかろう。竜神のほうは大丈夫わたしが仲に立って纏《まと》めてみせるからそれではこうこう、こうして待っていて下さい。時刻は丑満《うしみつ》、わたしが竜神を御案内します――話は早い。万端《ばんたん》なにくれとなくてはずを決めて間もなく女はいそいそ[#「いそいそ」に傍点]として波間へ消えて行った。
 さて、何しろ今夜こそはお顧客《とくい》の竜神がやって来て、人の知らないありがたい御法を授けて下さるというので、つぎの日一日、和泉屋の主人は上の空で暮らした。夜になるのを待って、女にいわれたとおりに家族は全部親類へ預け、召使いにも一人残らず一晩の暇をやって、これも女と約束したことだが、広い家の隅々にまで百目蝋燭《ひゃくめろうそく》を立てつらねて、ひとりつくねん[#「つくねん」に傍点]と待っていると――風が出たか、古い椽《たるき》がみし[#「みし」に傍点]と鳴ったりしてなんとも物凄いようだ。
 昼のうちから用意した竜神の好きそうな物をそれへ並べて、酒の燗もできている。退屈だし恐《こわ》いから、爺さんお先に手酌でちびちび[#「ちびちび」に傍点]やっていた。
 と、刻限。表の戸が細目にあいて、いつもの白衣の女がはいって来た。背後を向いてさし招いている。
 さてはいよいよ竜神のお成《な》り。おやじは上り框《がまち》に平伏した。足音がして誰か眼の前に立ったようす。
 おそるおそる頭をもたげた主人、一眼見るよりあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだというが無理もない。
 赤くなった黒木綿の紋付にがんどう[#「がんどう」に傍点]頭巾、お約束の浪人姿が、どきどきするような長い刀《やつ》を引っこ抜いて立っている。女はにっ[#「にっ」に傍点]として戸をしめると、
「お爺さん、びっくりさせてすまないねえ。じたばたすると危ないよ。わたしの竜神はちっ[#「ちっ」に傍点]とばかり気が短いんだから、ほほほ。」
 という挨拶で、あとは造作《ぞうさ》もない。おやじが口へ手拭を押こまれて、菰《
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