うぞく》は、たった今|洗濯盥《せんたくだらい》から引き上げたようにびしょ[#「びしょ」に傍点]ぬれなのだ。しかもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような蒼い顔で、何一つ口をきかずに、同じ酒を同じ徳利へ入れさせて、そいつを眼八分に持って、ほとんど摺《す》り足で帰って行ったから、さあ、一同すっかりへんな気がして評議まちまちだ。近辺には寺こそ多いが、お社《やしろ》はあんまりない。もっともすぐそばに鹿島明神があるが、そこにはこんな神女《みこ》なんかいはしない。そこで、この白衣《しろぎぬ》の女はどこから来るのだろうということが、第一に店の者の疑問となった。
実際、暮れ六つというと、毎日必ず下げ髪から身体《からだ》全体をぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]濡らして、女は跫音《あしおと》もなくやって来る。そして、同じ最上等の酒を一合だけ買って、それを儀式のように捧持《ほうじ》して立ち去るのだ。みんなひとかたならず気味わるがっているうちに、それが、ものの十日も続いた。
主人の耳にも入って、なにしろ店の者の評判が大きいから、聞いたいじょう捨ててもおけない。ある日女が来たところを掴まえて、番頭にいわしてみた。
「毎度どうも御ひいき[#「ひいき」に傍点]にあずかりましてありがとうございます。わざわざお運びを願うのもなんですから、御住処《おところ》さえお知らせ下さいますれば、毎晩一合ずつ手前のほうからお届けいたします。」
が、女はじろり[#「じろり」に傍点]と番頭の顔を見たきり、返事もせずに出て行ってしまった。
唖《おし》だろうということになったが、そうでない証拠にはこっちのいうことはわかるらしい。
毎日全身ぬれてくるのはどういう仔細だ?
ぬれてくるわの化粧坂《けわいざか》、はいいが、なんにしても奇態《きたい》な女。
――というので、あんまり気になるから、ある夕方、よせばいいのに主人自身がこっそり[#「こっそり」に傍点]女の跡をつけてみた。
女はすたすた藁草履を踏んで、浜のほうへ歩いて行く。この辺はもう人家もない。右手に薩州お蔵屋敷の森がこんもりと宵月《よいづき》に浮んでいた。
風が磯の香を運んで来る。行手に、もと船大工の仕事場だった大きな一棟が、荒れはてたお城のように黒ぐろと横たわっている。このさき、建物といってはこれ一つしかないのだ。
はて心得ぬ! あんなところへはいるのかしら?
と思いながら、なおも気どられないように間隔を置いて、和泉屋が尾行してゆくと、女はすう[#「すう」に傍点]っとその船大工場の横を通り過ぎた。
突き当りは海。
どぶうり、どぶり――浪の音がしている。急いで追っかけて砂浜へ出ると白衣の女は潮風に吹かれて波打ちぎわに立っている。
おや! 投身《みなげ》かな?
声をかけようか。
しかし、酒徳利と心中というのもおかしいぞ。
もうすこし待ってようすを見てやれ。
こう考えているうちに、和泉屋はすっかり胆《きも》を潰してしまった。
着衣のまんま、女が海へはいりだしたのだ。片手に酒の入っている徳利、片手を軽くぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]させて、着物の裾を引き上げるでもなく、まるで往来をあるくと同じように、女は沖へ向って進みつつある。
遠浅の内海だから寄せる浪は低いがそれでも岸近く砕《くだ》けて白い飛沫を上げている。浪が来ても、女はべつに跳ねもしない。一歩二歩と次第に深くなって、膝から腰、腹から胸と、女の身体《からだ》はだんだん水に呑まれてゆく。
磯松の根っこからひそかにこれを窺っている和泉屋こそ、薄っ気味も悪いが気が気でない。この場合、自分の家へ帰るような態度で海の中へ踏み込んで往くこの女の後姿には、実になんともいえない妖異《ようい》を感ぜざるをえなかったというが、そりゃそうだろう。
一段二段三段――と浪の線を後にして、女はしばらく水上に頭を見せていたが、やがてのことにそれもすっぽり[#「すっぽり」に傍点]没し去って、完全に海へめいり[#「めいり」に傍点]込んでしまった。が、姿は見えなくなっても、やはりその海底を、本芝の通りをあるいている時と同じように徳利を持って沖を指してすたこら[#「すたこら」に傍点]急いでいるのだろう――と思われる。
あとにはただ、寄せては返す潮騒が黒ぐろと鳴り渡って、遠くに松平肥後守様のお陣屋の灯が、漁火《いさりび》と星屑とのさかいに明滅《めいめつ》しているばかり。女身を呑んだ夜の海はけろり[#「けろり」に傍点]茫漠《ぼうばく》として拡がっていた。
白痴のようにぼんやり帰宅した和泉屋は、その夜の実見については何も語らなかった。
つぎの夕方も女は来た。和泉屋はまたあとをつけた。そうして前夜と同じに女が海へ入るところを見届けた。翌る日も、その次ぎの宵も――和泉屋は自分だけ
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