早耳三次捕物聞書
浮世芝居女看板
林不忘

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)菱屋《ひしや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三百両|騙《かた》り取られた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]している
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     第一話

 四谷の菱屋《ひしや》横町に、安政のころ豆店《まめだな》という棟割長屋《むねわりながや》の一廓があった。近所は寺が多くて、樹に囲まれた町内にはいったいに御小役人が住んでいた。それでも大通りへ出る横町のあたりは小さな店が並んで、夕飯前には風呂敷を抱《かか》えた武家の妻女たちが、八百屋や魚屋やそうした店の前に群れていた。
 豆店というのは、菱屋横町の裏手の空地にまばらに建てられた三棟の長屋の総称で、夏になると、雑草のなかで近所の折助《おりすけ》が相撲をとったり、お正月には子供が凧《たこ》をあげたりするほか、ふだんはなんとなく淋しい場所だった。柿の木が一、二本、申しわけのように立っていて、それに夕陽があたると、近くの銭湯から拍子木の音が流れて来るといったような、小屋敷町と町家の裏店を一つにした、忘れられたような地点だったが、空地はかなり広かったから、そのなかの三軒の長屋は、遠くからは、まるで海に浮んだ舟のように見えた。それで豆をちらばしたようだともいうところから、豆店の名が出たのだろうが、住んでいる連中というのがまた法界坊《ほうかいぼう》や、飴売りや、唐傘《からかさ》の骨をけずる浪人や、とにかく一風変った人たちばかりだったので、豆店はいっそう特別な眼で町内から見られていた。
 が、なんといっても変り種の一番は差配の源右衛門であったろう。源右衛門は一番奥の長屋の左の端の家にひとり住いをしていたが、まだ四十を過ぎて間もないのに、ちょっと楽隠居といったかたちだったというのは、源右衛門の本家は、塩町の大通りに間口も相当ある店を出している田中屋という米屋で、源右衛門もつい去年まで、自分が帳場に坐ってすっかり采配を振っていたのだが、早い時にもった息子が、相当の年齢《とし》になっていたので、これに家督《かとく》を譲って自分は持家の長屋の一軒へ、差配として移ったのだった。こうして男盛りを何もしないでぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]している源右衛門は、豆店の差配といったところで、人は動かずできごとは絶えてなし、何一つこれと取りたてて言う仕事もないので、独り身の気楽ではあり、毎日そこらを喋り歩いては、人から人へ話を伝えて、どうかすると朝から晩まで、銭湯の二階や、髪床の梳場《すきば》にごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]していることが多かった。
 その源右衛門がこのごろすこし忙《せわ》しがっているというのは、急に自分の家のとなりにいた浪人者が引越して、長屋に一つ穴があいたためだった。その空《あ》いた家というのは、どうせ棟割長屋のことだから、落ちかかったうすい壁一重で差配を仕切られていて、それに裏がすぐ屋敷の竹藪につづいて陽当りがわるいので、前からよく住みての変る家だった。移って行った浪人はそれでも一年あまりいたが、隣の差配源右衛門が、何かにつけうるさいので、とうとう怒ってあけたようなわけだった。
 そこで源右衛門は、あちこち手をまわして口をかけて、借りたいというものの出てくるのを待っていたが、ただの借家でも家主があまり近いといやがる人が多いのに、となりにやかましやの源右衛門という差配が頑張っているので、おいそれと借り手があらわれなかった。一日空かしておけばそれだけ家が寝るわけだから、源右衛門が気ちがいのように借家人を探していると、ある日の夕方、二十歳《はたち》ばかりのすっきりした美しい女が、六つほどの女の子の手をひいて、源右衛門の格子の前に立った。
 女がその家を見たいというので、源右衛門は世辞たらたらで、表の戸を開けた。なかは六畳に四畳半の住み荒らした部屋で、ちょっと誰でも二の足をふむほどのきたなさだったが、女はろく[#「ろく」に傍点]に見もせずにすぐに借りることにして、その翌朝どこからともなしに、風呂敷包みを二つ三つぶらさげたままで、子供をつれて移って来た。
 あんまり手軽な引越しなので、源右衛門もちょつと不安な気がしたが、女はさっそく隣近所に蕎麦《そば》を配るし、なにしろ美人で愛嬌《あいきょう》がいいので、源右衛門も奇異の感よりはむしろ最初から好意をよせていた。
「源右衛門さん、お隣りへ素晴らしいのが来ましたね。危ねえもんだ。」
 などと近所の人に言われると、源右衛門はいかにも危なそうににやにや[#「にやにや」に傍点]して、いい気に顎をなでたりしていた。
 まず女の正体が長屋じゅうの問題になった。なにしろ二十歳《はたち》そこそこの若い女が、家財道具もない家に、女の子と二人きりでぽつん[#「ぽつん」に傍点]と暮しているのだから、これは人の口の端に上るのは無理もあるまい。女はじつに眼鼻だちの整った、色の浅黒い江戸前のいい女だったが、女の子も、眼のくりくりした可愛い子で、長いあいだ貧乏していると見えて、どっか物欲しそうな、こましゃくれたところがあった。女はほかの者へは挨拶もしないくらいで、物好きな長屋の若い者なんかが、いろんな機会に話しかけようとしても、白い歯一つ見せたことはなかったが、源右衛門にだけは初めからうちとけて、おりにふれて自分の身の上を開かしたりした。それによると、女は、日本橋辺の老舗《しにせ》の娘で、商売に失敗して両親が借金を残して死んだので、たったひとりの妹をつれて隠れているとのことだった。これが源右衛門の口で近所《きんじょ》界隈《かいわい》にひろまると、女を見る一同の眼が同情に変ったが、その中で一番熱心に味方になって世話をやきだしたのは、言うまでもなく差配の源右衛門だった。こうして女とその妹という小さい子とは、豆店の源右衛門の隣の家に住むことになったが、五日と経ち十日と過ぎるうちに、まず源右衛門がびっくりするほど、女の家が綺麗になった。何一つ荷物のないのは相変らずだったが、それでも隅々まで女の掃除《そうじ》の手がとどいて、源右衛門とのさかいの壁には、厚い紙が何枚もはられた。源右衛門は、不思議に思うよりも、女の手まめによって家が面目を改めるのをなによりも喜んでいた。
 じっさい女はよく働いた。が、それは家のなかの掃除だけで、箒《ほうき》か雑巾《ぞうきん》を持っていない時は、女はただぼんやりと部屋のまん中に坐っていた。妹という女の子も、戸外《そと》に出てほかの子供たちと一緒に遊ぶようなことはけっしてなく、また何日たっても人の訪ねて来たことは一度もなかった。
 すると、ある日のこと源右衛門が、表の本家の米屋の店に腰をかけて、息子や番頭を相手に楽隠居らしい馬鹿話をつづけていると、息子の源七が、ふ[#「ふ」に傍点]と何か、思い出したように、うしろを向いて小僧へ言った。
「定吉や、ちょうどお父つぁんが来ていなさるから、あれを持って来てみな。」
 何だい? と源右衛門が怪訝な顔をしているところへ、源七は小僧の持って来たものをうしろ手に受け取って、きらり[#「きらり」に傍点]と親父の前へ投げ出した。ちゃりんと音のするのを見ると、思いがけなく、眼を射るような吹きたての小判だった。
「すばらしい物じゃないか。どっから手に入れた?」
 源右衛門がこう言って訊くと、源七はにこり[#「にこり」に傍点]ともせずに小判を見つめながら、
「真物《ほんもの》ですよ、お父つぁん。」
 と怖そうに声を低めた。
 源右衛門はその顔を見つめて、
「なに? ほんものには相違あるまい。なぜそんな妙なことを言うのだ? 誰から受け取ったのだ?」
 すると源七は、それでも疑い深そうに、小判を指さきへのせて弾いてみながら、
「まあ、本物でよござんしたがね――。」
 と、つぎのようなことを語りだした。
 今朝がた、店《たな》をあけて間もなくだという。
 源右衛門の隣りの家の女の児が、風呂敷包みを下げてお米を少し小買いに来たのだったが、その時、女の児が米代としておいて行ったのがこの小判だった。豆店の新参ものの女からこんな見事な小判で買物に来たのだから、店のほうでも一応は不審を抱いて、子供を待たしておいて源七が裏から小判を持って出て、そっと近所の役人に鑑定《めきき》してもらうと、まぎれもない金座で吹いた小判だというので、源七は安心して、米とおつりを渡したのだったが、小判が真物《ほんもの》であればあるだけ、どうしてあの家具一つ持たない女が、子供に小判を握らせて米を買いになどよこすのか、考えて見ればそれが少し妙に思われるとの源七の言葉だった。これには源右衛門も同感だった。で、一応それとなく気をつけてみることにして、その日はそれで豆店へ帰ったのだった。
 家の前を通りがけにちらとなかを覗くと、女は風呂にでも行ったらしく留守だった。小判がほん物であるいじょう、たとえ誰が持って来ても、疑う筋合いはないようなものの、無一文に破産をしたという隣の女とあの吹きたての小判とを結びつけて考えることは、源右衛門にはどうしてもできなかった。
 その晩のことである。
 真夜中過ぎていたが、そんなことや何かが気になって源右衛門の眠りは浅かったとみえる。ふと金のかち合うような音を耳にしたと思って、源右衛門は眼を覚ました。たしかに隣の家で、金物の細工でもしているらしい音が、忍びやかに聞えてくる。源右衛門は、そっと立ち上って壁に耳をつけた。まぎれもなく金属を細かくたたく音や、鑢《やすり》を[#「鑢《やすり》を」は底本では「鑪《やすり》を」]かける響きや、そうかと思うと何をするのかわからないが、金と金との触れ合う音が断続して伝わる。源右衛門は、壁の穴を探して覗いて見ようとしたが、思い出したのは、隣の女が移って来るとすぐ、向う側から紙を貼って穴という穴はすっかり塞いでしまったことだった。
 夜中に起きて細工をするとは何だろう?――と訝《いぶ》かしみながら寝床に帰った源右衛門は、かちかち[#「かちかち」に傍点]という音を耳にしながら、いつの間にか眠ってしまったのだった。
 翌る朝早く、前の井戸で源右衛門が顔を洗っていると、隣の女の子が風呂敷を下げて使いに出て来た。
「お早よう、小父《おじ》さん。」
「お使いかね?」
 女の子はうんと頷いて行き過ぎようとしたが、何ごころなくその手を見た源右衛門はびっくりした。子供が、眼のさめるような小判を握っているのである。
 源右衛門は何も言わずに子供のうしろ姿を見送っていたが、やがて額に皺を寄せて考え込んでしまった。
 そんなことが毎晩のようにつづいた。
 源右衛門が気をつけていると、女はかならず夜中に例の金物の細工のような音をたてて、その翌る朝はきまって小さな妹が新しい小判をもって買物に出て行く。どの店へでも行ったらしいが、田中屋へもよくそのまあたらしい小判をもって来た。あんまりたび重なるので、源右衛門が自分でそれを集めて持って行って役人に検べてもらった。するとやはりまぎれもない天下の通宝だという。源右衛門は狐につままれたような心持ちで、ある日こっそり隣の女の子に訊いてみた。
「姉さんはよく光ったお金を持ってるね。どこからもって来るの?」
 すると女の子が答えた。
「持って来るんじゃないよ。あれ、姉ちゃんが造るんだよ。」
 源右衛門はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として首をちぢめてあたりを見廻すと、そのまま家へ帰ってすぐつくづく考えた。
 隣の女はにせ金を造っている。それはいいが、どこへ持って行っても、お役人に見せてさえ、天下のおたからとして折紙をつけられるのがへん[#「へん」に傍点]ではないか。さてはよほど上手なにせ金つくりとみえる。
 と、ひとり呟いているところへ、案内もなくあわただしく隣の女がはいって来た。そっ[#「そっ」に傍点]と戸を閉めて源右衛門を見た女の顔は、血の気をなくしていた。
「まあ! いま妹が帰って来て聞いたんですけれど、あなたにとんだ
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