こそこの若い女が、家財道具もない家に、女の子と二人きりでぽつん[#「ぽつん」に傍点]と暮しているのだから、これは人の口の端に上るのは無理もあるまい。女はじつに眼鼻だちの整った、色の浅黒い江戸前のいい女だったが、女の子も、眼のくりくりした可愛い子で、長いあいだ貧乏していると見えて、どっか物欲しそうな、こましゃくれたところがあった。女はほかの者へは挨拶もしないくらいで、物好きな長屋の若い者なんかが、いろんな機会に話しかけようとしても、白い歯一つ見せたことはなかったが、源右衛門にだけは初めからうちとけて、おりにふれて自分の身の上を開かしたりした。それによると、女は、日本橋辺の老舗《しにせ》の娘で、商売に失敗して両親が借金を残して死んだので、たったひとりの妹をつれて隠れているとのことだった。これが源右衛門の口で近所《きんじょ》界隈《かいわい》にひろまると、女を見る一同の眼が同情に変ったが、その中で一番熱心に味方になって世話をやきだしたのは、言うまでもなく差配の源右衛門だった。こうして女とその妹という小さい子とは、豆店の源右衛門の隣の家に住むことになったが、五日と経ち十日と過ぎるうちに、まず源右衛門がびっくりするほど、女の家が綺麗になった。何一つ荷物のないのは相変らずだったが、それでも隅々まで女の掃除《そうじ》の手がとどいて、源右衛門とのさかいの壁には、厚い紙が何枚もはられた。源右衛門は、不思議に思うよりも、女の手まめによって家が面目を改めるのをなによりも喜んでいた。
じっさい女はよく働いた。が、それは家のなかの掃除だけで、箒《ほうき》か雑巾《ぞうきん》を持っていない時は、女はただぼんやりと部屋のまん中に坐っていた。妹という女の子も、戸外《そと》に出てほかの子供たちと一緒に遊ぶようなことはけっしてなく、また何日たっても人の訪ねて来たことは一度もなかった。
すると、ある日のこと源右衛門が、表の本家の米屋の店に腰をかけて、息子や番頭を相手に楽隠居らしい馬鹿話をつづけていると、息子の源七が、ふ[#「ふ」に傍点]と何か、思い出したように、うしろを向いて小僧へ言った。
「定吉や、ちょうどお父つぁんが来ていなさるから、あれを持って来てみな。」
何だい? と源右衛門が怪訝な顔をしているところへ、源七は小僧の持って来たものをうしろ手に受け取って、きらり[#「きらり」に傍点]と親父の前へ
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