早耳三次捕物聞書
うし紅珊瑚
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)前方《まえ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+戈」、176−下−7]
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一
人影が動いた、と思ったら、すうっ[#「すうっ」に傍点]と消えた。
気のせいかな、と前方《まえ》の暗黒《やみ》を見透しながら、早耳三次が二、三歩進んだ時、橋の下で、水音が一つ寒々と響き渡った。
はっ[#「はっ」に傍点]とした三次、欄干へ倚って下を覗いた。大川の水が星を浮かべて満々と淀み、※[#「木+戈」、176−下−7]《くい》を打って白く砕けている。その黒い水面を浮きつ沈みつ、人らしい物が流れていた。
「や、跳びやがったな!」
思わず叫ぶと、大川橋を駈け抜けて、三次は、材木町の河岸《かし》に立った腰を屈めて窺う夜空の下、垂れ罩《こ》めた河靄《かわもや》のなかを対岸北条、秋山、松平の屋敷屋敷の洩灯《もれび》を受けて、真黒な物が水に押されて行くのが見える。
「この寒空に――ちっ、世話あ焼かせやがる!」
手早く帯を解いて、呶鳴りながら川下へ走った。
「身投げだ、身投げだ、身投げだあっ!」
起きいる商家から人の出て来る物音の流れて来るところを受ける気で、三次、ここぞと思うあたりから飛び込んだ。
人間というものは変な動物で、どこまでも身勝手にできている。どうせ水死しようと決心した以上、暑い寒いなぞは問題にならないはずだが、最後の瞬間まですこしでも楽な途を選びたがるのが本能と見えて、夏は暑いから入水して死ぬ者が多いが、冬は、同じ自殺するとしても、冷たいというので水を避けて他の方法をとる場合が多い。だから、冬期の投身自殺はよくよくのことで、死ぬのに嘘《うそ》真個《ほんと》というのも変なものだが、これにはふとした一時の出来心や、見せつけてやろうという意地一方のものや、狂言なぞというのは絶えてありえない。それに、たいがいの投身者が、水へはいるまでは死ぬ気でいても、いよいよとなると苦しまぎれに※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて助けを呼ぶのが普通だが、今この夜更けに、大川橋の上から身を躍らして濁流に浮いて行く者は、男か女かはわからなかったが、よほどの覚悟をきめているらしく、滔々《とうとう》たる水に身を任せて音《ね》一つ立てなかった。
抜手を切って泳ぎ着いた三次、心得があるから頓《とみ》には近寄らない。瞳《め》を凝らして見るとどうやら女らしい。海草のような黒髪が水に揺れて、手を振ったのは救助御無用というこころか。が、もとより、へえ、そうですか、と引っ返すわけにはゆかない。強く脚を煽《あお》って前に廻った三次、背中へ衝突《ぶつか》って来るところを浅く水を潜って背後《うしろ》へ抜けた。神伝流で言う水枕、溺死人引揚げの奥の手だ。藁をも掴むというくらいだから真正面《まとも》に向っては抱き付かれて同伴《みちづれ》にされる。うしろへ引っ外しておいて、男なら水褌《すいこん》の結目へ手を掛けるのだが、これは女だから、三次、帯を押さえた。左手で握ってぐっ[#「ぐっ」に傍点]と引き寄せ、肘を相手の腋の下へ挾むようにして持ち上げながら、右手で切る片抜手竜宮覗き。水下三寸、人間の顔は張子じゃないから濡れたって別条ない。それを無理に水から顔を上げようとするから間違いが起る。三次、女を引いて楽々岸へ帰った。
岸に立って舟よ綱よと騒いでいた連中、総掛りで引き上げてみると、水を多量に呑んだか、なにしろ寒中のことだから耐らない。女はすでに事切れていた。
近辺の者だから、皆一眼見て水死人の身許は知れた。材木町の煎餅屋渡世《せんべいやとせい》瓦屋伊助の女房お藤というのが、その人別であった。
三次が指図するまでもなく、誰か走った者があると見えて、瓦屋伊助が息急《いきせき》きって駈けつけて来た。伊助、初めは呆然として突っ立ったきり、足許の女房の死体を見下ろしていたが、やがてがっくり[#「がっくり」に傍点]と膝をつくと、手放しで男泣きに哭《な》きだした。集った人々も思わず提灯の灯を外向《そむ》けて、なかには念仏を唱えた者もあった。
そのうちに、
「畜生ッ!」
と叫んで、伊助が起き上った。眼が血走って、顔は狂気のように蒼褪《あおざ》めていた。
「己れッ! おふじの仇敵《かたき》だ――。」
ふらふら[#「ふらふら」に傍点]と歩き出そうとするのを、三次が抱きとめた。
「おお親分か――三次親分、お騒がせ申して、また、あんたが引き揚げて下すったそうで、まことに、あいすみません、あいすみません。だが、こ、これはあんまりでげす。こうまでして証を立てられてみちゃあ、あっしも男だ。これから、これからすぐに踏ん込んで――。」
塞《せ》かれていた水が一度にどっ[#「どっ」に傍点]と流れ出るように、伊助は吃《ども》りながら何事か言いたてようとする。貧乏世帯でも気苦労もなく普段からしごく晴々していた若女房の不意の入水、これには何か深い仔細《しさい》がなくてはかなわぬと先刻から眼惹き袖引き聴耳立てていた周囲《まわり》の一同、ここぞとばかりに犇々《ひしひし》と取り巻いてくる。
三次、素早く伊助の言葉を折った。
「まあま、仏が第一だってことよ。地面《じべた》に放っぽりかしちゃあおけめえ。あっしが通りかかって飛ぶ所を見て、死骸だけでも揚げたというのも、これも何かの因縁だ。なあ伊助どん、話あ自宅《うち》へ帰《けえ》ってゆっくり聞くとしょう。とにかく、仇敵討《かたきう》ちってのは穏和《おだやか》じゃあねえ。次第《しでえ》によっちゃ腕貸《うでかし》しねえもんでもねえから、さあ行くべえ。死んでも女房だ、ささ、伊助どん、お前お藤さんを抱いてな――おうっ、こいつら、見世物じゃあねえんだ! さあ、退いた、どいた。」
二人で死体を運んで、三次と伊助、材木町通りのなかほどにある伊助の店江戸あられ瓦屋という煎餅屋へ帰って行った時は、冬の夜の丑満《うしみつ》、大川端の闇黒《やみ》に、木枯《こがらし》が吹き荒れていた。
二
蔵前旅籠町《くらまえはたごちょう》を西福寺門前へ抜けようとする角《かど》に、万髪飾《よろずかみかざ》り商売《あきない》で亀安という老舗《しにせ》があった。
十八日の四谷の祭りには、女房お藤が親類に招かれて遊びに行くことになっていたので、以前《まえ》まえからの約束もあり、今朝伊助は、貧しい中からいくらかの鳥目をお藤に持たせて、根掛けの板子縮緬《いたこちりめん》を買いに亀安へ遣《や》ったのだった。
女房とはいえまだ子供子供したお藤。かねて欲しがっていた物が買って貰えることになったので、朝早くからひとりで噪気《はしゃ》いで、煎餅の仕上げが済むと同時に、夕暮れ近くいそいそ[#「いそいそ」に傍点]として自宅《いえ》を出て行ったが、それが小半時も経ったかと思うころ、蒼白《まっさお》な顔に歯を喰い縛って裏口から帰って来て、わっ[#「わっ」に傍点]とばかりに声を揚げて台所の板の間に泣き伏してしまった。
吃驚《びっくり》した伊助、飛んで行ってお藤を抱き起し、いろいろと問い糺《ただ》してみたものの、ただ、
「口惜《くや》しい、くやしいッ!」
と泣くだけで、お藤は何とも答えなかった。
女房思いで気の弱い伊助が、途方に暮れておろおろ[#「おろおろ」に傍点]しているところへ、間もなく、小間物屋亀安の番頭が、頭から湯気を立てて、豪《えら》い権幕《けんまく》で乗り込んで来た。
此家《こちら》のお内儀かは存じませんが、それ、そこにいる御新造――とお藤を指して――が、私どもの店で、二十五両もする平珊瑚の細工物を万引《ちょろま》かしたから、今この場で、品物を返すか、それとも耳を揃えて代金を払ってくれればよし、さもなければ、出るところへ出て話を付けて貰おう、それまではこのとおり、店頭へ据わり込んで動かないという言分。煎餅どころじゃない。瓦屋の一家――といっても夫婦二人だが――とんでもない騒動になった。
正直一徹の伊助が、発狂するほど驚いたことは言うまでもない。お藤は、それでも、泣きながら首を振って、あくまでも身に覚えのないことを主張《いいは》ったが、番頭はいよいよ権《かさ》にかかる一方、お藤はよよ[#「よよ」に傍点]と哭き崩れる。その間に立って気も顛倒《てんとう》した伊助、この時思い付いたのが、証拠の有無という重大な一事であった。
「ねえ親分。」と伊助は三次のほうへ膝を進めて、「しが[#「しが」に傍点]ない渡世こそしているものの、他人《ひと》に背後指《うしろゆび》差されたことのないあっし[#「あっし」に傍点]、夫の口から言うのも異なものだが、彼女《あれ》とても同じこと、あいつにかぎってそんな大それたことをするはずは毛頭ありません。こりゃあ何かの間違えだ。いくら先様が大分限《だいぶげん》でもみすみす濡衣《ぬれぎぬ》を被《き》せられて泣寝入り――じゃあない、突出されだ、その突出されをされるわきゃあない、とこうあっし[#「あっし」に傍点]は思いましたから――。」
ぽん[#「ぽん」に傍点]と吐月峯《はいふき》を叩いた三次、
「だが伊助どん、待ちねえよ。ただの難癖言掛《なんくせいいがか》りじゃすまねえことを、そうやって担ぎ込んで来るからにゃあ、先方《むこう》にだってしかとした証拠ってものがあろうはず。」
「へえ。あっしもそこを突っ込みやしたが。」
「何ですかえ、その亀安の番頭は、お藤さんが珊瑚《さんご》を釣る現場を明瞭《はっきり》見たとでも言いましたかえ。」
「めっそうな!」
「そんならいってえ、何を証拠《たて》に、お藤さんに疑《うたげ》えをかけたんですい?」
なんでも番頭の話では、お藤が店へはいると間もなく、そこにあった珊瑚が一つ失くなったことに気がついたので、店じゅう総出で探したが見当らないから、この上はと理解を付けてお藤を奥へ伴《つ》れて行き、一応身柄をさぐろうとしたら、お藤はその手を振り解いて泣きながら逃げ帰ったという。
「親分、身柄調べたあひどうがしょう。あっし[#「あっし」に傍点]もそこを言ってやりやした。瘠せても枯れても他人《ひと》の嚊《かか》あへよくも――。」
「でなにかえ伊助どん。そう追っかけてまで捩《ね》じ込んできたんだから、此家《ここ》で、お前さん立会《たちえ》えのうえで、改めて身柄しらべをしたろうのう、え?」
「へえ。」
「品物は、出やしめえの?」
「親分、それが出ねえくらいなら、お藤も死なずに済むはず――。」
「なに? てえと、出たのか。その珊瑚がお藤さんの身柄から出たのか。」
「へえ。」
「ふうむ。それからどうした。」
「それからあっし[#「あっし」に傍点]も呆れて情なくなって、ずうっ[#「ずうっ」に傍点]と口もきかずにいると、お藤は突っ伏したきりでいやしたが、夜中に走って出てとうとう――。」
「いや、お藤さんにかぎってそんな賊を働くなんてことのあるはずはねえが。」
「親分、あ、あんたがそうおっしゃって下さりゃあ、こいつも浮かばれます。」
隅に蒲団を被せてある死人を返り見て、伊助は鼻をすすった。
「しかし伊助どん。」ぴりっ[#「ぴりっ」に傍点]とした調子で三次がつづける。「現物が出た以上、それが何よりの証拠だ。やっぱりお藤さんが盗ったものに相違あるめえ。その珊瑚はどうしたえ?」
「番頭が持って帰りやした。」
「のう伊助どん、つかねえことを訊くようだが、お藤さんは月のさわりじゃなかったかな。よくあることよ。月の物のさいちゅうにゃあ婦女《おなご》はふっ[#「ふっ」に傍点]と魔が差すもんだ。ま、気が咎めて自滅したんだろ。葬《とむれ》えが肝腎《かんじん》だ。」
三次は立ち上った。そして、気がついたように、
「お藤さんのどこから、珊瑚が出ましたえ?」
「へえ。帯の間から。」
という伊助の返事に、三次は蒲団を捲《まく》って、しばらく死
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