人の帯を裏表審べていたが、やがて、つ[#「つ」に傍点]と顔を上げると、
「伊助どん、この家に、固煉《かたね》りの鬢付《びんつ》け伽羅油《きゃらあぶら》があるかえ。」
「さあ――お藤は伽羅は使わなかったようですが。」
「うん。そうだろ。こりゃあちっと詮議してみべえか。もしお藤さんが潔白《けっぱく》となりゃあ、お前《めえ》に助太刀して仇敵討ちだ。存外おもしれえ狂言があるかもしれねえ。まま明日まで待っておくんなせえ。」
 口唇へ付けるうし[#「うし」に傍点]紅《べに》は、寒《かん》の丑《うし》の日に搾《しぼ》った牛の血から作った物が載りも光沢《つや》も一番好いとなっているが、これから由来して、寒中の丑の日に水揚げした珊瑚は、地色が深くて肌理《きめ》が細かく、その上、ことのほか凝《こ》りが固いが、細工がきくところから、これを丑紅珊瑚と呼んで、好事《こうず》な女たちのあいだに此上《こよ》なく珍重されていた。ことに蔵前の亀安と言えばこの紅珊瑚の細工で売出した老舗、今日問題になった品もうし[#「うし」に傍点]紅物で、細長い平たい面へ九にい[#「い」に傍点]の字の紀国屋《たのすけ》の紋を彫った若意気向き、田之助《たゆう》全盛の時流に投じた、なにしろ金二十五両という亀安自慢の売出物だったとのこと。
 伊助の口からこれだけ聞出すと、早耳三次、そそくさ[#「そそくさ」に傍点]と瓦屋の家を出た。
 明けにも間がある。何かしきりに考えながら帰路《かえり》を急いで、三次は花川戸の自宅《いえ》を起した。

      三

 紺《こん》の亀甲《きっこう》の結城《ゆうき》、茶博多《ちゃはかた》の帯を甲斐《かい》の口に、渋く堅気に※[#「にんべん+扮のつくり」、第3水準1−14−9]《つく》った三次、夜が明けるが早いか亀安の暖簾《のれん》を潜った。
 四十あまりの大番頭が端近の火鉢に凭《もた》れて店番しているのを見て、三次は、ははあ、これが昨日瓦屋へ談じ込んで行った白鼠だな、と思った。
 上り框《がまち》へ腰を下ろしながら見ると、上り際の縁板の上へ出して、畳から高さ一尺ほどの紫檀《したん》の台が置いてあって、玳瑁《たいまい》の櫛や翡翠《ひすい》象牙《ぞうげ》水晶《すいしょう》瑪瑙《めのう》をはじめ、金銀の細工物など、値の張った流行《はやり》の品が、客の眼を惹くように並べてあった。台の上部《うえ》は土間に立つと三尺ほどの高さで、被《かぶ》せ板が左右に一寸ほど食《は》み出ているぐあいが、なんのことはない、経机の形だった。
 大店だから三次もなにかと出入りすることがあったが、いちいち店の者の顔を視覚《おぼ》えているほどではなかったので、三次が、身分を明かして根掘り葉掘り訊き出すまでは、亀安のほうでも、昨日のことについては容易に口を開こうとはしなかった。
 が、煎餅屋の女房が身投げして、それについて花川戸の早耳親分が出張って来たとあっては、何もかも割って話さざるを得ない。
 昨日の午後、というよりも夕方だった。
 煎餅屋の女房が買物に来て、根掛けを選んでいるうちに、ふ[#「ふ」に傍点]と見ると、今まで台の上にあったうし[#「うし」に傍点]紅珊瑚が一つ足らなくなっている。で、小僧を励《はげ》ましてそこらを捜して見たが見当らない。すると、前から来ていて買物を済まして、その時出て行こうとしていたお妾《めかけ》ふうの粋な女が、供の下女と一しょに引っ返して来て、こういう事件《こと》ができた以上、このまま帰るのは気持ちが悪いから、気のすむように身柄を審べて貰いたいとかなり皮肉に申し出た。店では恐縮して、奥の一間で衣類なぞを検《み》てみたが、もちろん品物は出てこなかった。女はふん[#「ふん」に傍点]と鼻を高くして、下女を連れて帰って行った。そこで、自然の順序として、今度は、煎餅屋の女房をしらべさせて貰うことになったが、このほうは泣いて手を触れさせないばかりかそのうちに隙を見て逃げて帰った。身に暗いところさえなければ嫌疑《うたがい》を霽《は》らすためにもここは自分から進んで調べてくれと出なければならないところを、これはいよいよもって怪しいとあって、それからすぐに跡を追って家へ行って、夫《おっと》立会いの上で身体《からだ》を審《しら》べてみたら、案の定、乳の下の帯の間から、失くなった珊瑚が出てきた。ともかく珊瑚が戻ったのだから、今度だけは内済にして、そのうえ別に強談《ごうだん》もしなかったという。あの内儀《おかみ》がゆうべ自殺したと聞いて、番頭は不思議そうな顔をしていた。
 台の上には、他の物と一しょに、丸にい[#「い」に傍点]の字の田之助《たゆう》珊瑚が五つ六つ飾ってある。大きさも意匠《いしょう》もみな同じようで、帯留の前飾りにできたものだった。三次は黙ってそれを凝視《みつ》めていたが、そのうちに、
「その昨日の珊瑚もこのなかにありますかえ。」
 と訊いた。番頭が、ありますと答えると、三次は、
「どれだか、あっしが当ててみせよう。」
 と言いながら、一つ一つ手にとって指頭で触ってみたり、鼻へ当てて嗅いだりしていたが、やがて、そのうちの一つを掌《てのひら》へ載せて、
「これだろう、え?」
 と言って、番頭の眼の前へ突き出した。番頭はびっくりして、頷首《うなず》いた。
「へえい! こりゃ驚いた。どうしてそれ[#「それ」に傍点]だとわかりました?」
「ま、そんなこたあどうでも好《え》えやな。それよりゃあ番頭さん、珊瑚が無えとお前さんが言いだした時、煎餅屋の女房はどうしましたえ。」
「愕然《ぎょっ》として突っ立ちました。」
「台《でえ》の傍にかけてたろう、え?」
「はい。この台のそばに腰かけていましたが、珊瑚が失くなったと騒ぎだしたら、あわてて起ち上りました。」
 三次はしばらく考えた後、
「この珊瑚珠《さんごだま》あ毎日拭くんでがしょうな?」
「ええ、ええ、それは申すまでもございません。へえ、毎朝お蔵から出して台へ並べる時に、手前自身で紅絹《もみ》の布《きれ》で丹念《たんねん》に拭きますんで、へえ。」
 それにしては、今三次がたくさんの珊瑚の中からそれ[#「それ」に傍点]と図星を指した問題の品に、伽羅《きゃら》油の滑りとにおいが残っているのが、不思議であった。お藤の帯の裏にも、伽羅油の濃い染みがあったことを、三次は思い返していた。
 一つ解《ほ》ぐれれば、あとはわけはない。
 眉を顰《しか》めて思案に耽《ふけ》っているうちに、早耳三次、急に活気を呈してきた。見得《けんとく》の立った証拠ににわかに天下御免の伝法風になった御用聞き三次、ちょっと細工をするんだからとばかり何にも言わずに、番頭を通して奥から碁石を一つ借り受けた。それから、例の框《かまち》の上の飾台《だい》の前に立って、何度となく離れたり蹲踞《しゃが》んだりして眺めていたが、やにわに台の下を覗き込んだ。
 その、一寸ほど出張った上板の右の裏に、こってりと伽羅油の固まりが塗ってある。冬分のことだから空気が冷えている。油はすこしも溶けていない。にっこり[#「にっこり」に傍点]笑った三次、そこへ、件《くだん》の碁石を貼りつけた。
 そうしておいて、ずっ[#「ずっ」に傍点]と離れたところに腰をかけて、番頭と向き合った。二、三人客がはいって来た。三次も客と見せかけるために、前へいろいろな櫛《くし》笄《こうがい》の類を持ち出すように頼んで、それをあれこれと手にとりながら、声を潜めて言った。
「昨日煎餅屋の女房が来た時に出て行こうとした女、自身から進んで身柄取調べを受けた女、その女がお店で買った物を、あっし[#「あっし」に傍点]が一つ言い当てて見せやしょうか――こうっ、固煉《かたね》りの伽羅油だろう? どうだ?」
「ああそうでした。なるほどそうです。伽羅を一つお買い下すった。だが親分、どうしてそんなことがおわかりですい? それがまた、なんの関係《かかりあい》になるんですい?」
「その女は、昨夜あとからまた来たかえ?」
「いいえ。」
「よし。」と三次は何事か決心したように、「お前さん、その女の面にゃあ見覚えがあろうの?」
「さあ。べつにこれといって言いたてるところもございませんが、なにしろ奥まで通したんですから、見ればそれ[#「それ」に傍点]とはわかりましょう。」
「うん。女《やつ》が来たら咳払《せきばれ》えして下せえよ。いいけえ、頼んだぜ。」
 番頭は眼で承知のむねを示した。
 それから二人は待った。
 番頭と三次、来るか来ないか解らない昨日の伽羅油の女を、ここでこうして、気永に待ちかまえることになった。
 来るか来ないかはわからない。が、三次は来るという自信を持っていた。しかし、いつまで経っても女は来なかった。
 半時過ぎた。一時経った。その間に、女の客も二、三人あった。けれど、それらしい女は影も形も見せなかった。三次は焦《じ》れだした。ことによると大事を踏んで、午後《ひるすぎ》までには来ないかもしれない、もうここらで切上げようかしら、こうも思ってはみたものの、死んだお藤や、伊助の狂乱を考えると、ここまで漕ぎつけて打ち切ることは、さすがに三次にはできなかった。
「へん、こうなったら根較べだ。」
 心の中で独言をいって、三次はいっそう腰を落着けた。黙ってじい[#「じい」に傍点]と事件の連鎖《つながり》を見つめているうちに、三次には万事がわかったような気がした。今はただ、三次は待っていた。

      四

 雨だった。いつの間にか雨に変っていた。冷たい雨が音を立てて、沛然《はいぜん》と八百八町を叩いていた。
「好いお湿《しめ》りだ、と言いてえが、これじゃあ道路《みち》が泥《ぬか》るんでやりきれねえ。いや、降りやがる、ふりやがる――豪気なもんだ。」
 こう言って三次が、煙草《たばこ》の火玉を土間へ吹いた時、
「御免なさい。」
 という優しい声がして、おりから煽《あお》る横降りを細身の蛇の目で避けながら、唐桟《とうざん》ずくめの遊人ふうの若い男がはいって来た。三次はそっちを一眼見たきり、気にも留めずにいると、
「女物の羽織紐を一つ見せて下さい。」
 と言っている。
 嫌な奴だな、と思いながら、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》へ当てた手の指の間から、三次、それとなしに見守りだした。のっぺり[#「のっぺり」に傍点]した好い男で、何となくそわそわ[#「そわそわ」に傍点]している。そこは稼業《しょうばい》、こいつあおかしいぞ、と、三次、早くも気を締めた。
 そんなこととは知らないから、番頭はいい気なもの欠伸《あくび》まじりに、
「へえ――い。」
 とか何とか答えながら、言われた品を取りに背後《うしろ》へ向くと、男は思いきったように進んで、飾台《だい》の傍へ腰を下ろした。
 おやっ[#「おやっ」に傍点]と三次はきっ[#「きっ」に傍点]となった。番頭はまだうしろざまに紐の木箱を見立てている。
 と、男の手がするする[#「するする」に傍点]と動いて台の下へ辷って行った。それも瞬間、まさか碁石とは知らないから台の下から取った物を見もせずに素早く袂へ投げ込むと、男は何食わぬ顔で澄まし込んだ。ちょうどそのとき、番頭が紐の小箱を持って振り返った眼の前へ並べたので、男は何か低声で相談しながら、好みの品を物色し始めたが、結局、気に入ったのが一つもないと言って、何も買わずに店を出ようとした。
 今押さえようか、と三次は思った。が、昨日来たのは女だという。してみれば共犯《ぐる》に相違ない。それならここはわざと無難に落してやって、跡を尾《つ》けて大きな網を被せるほうが巧者《りこう》だと考え付いて、三次、静かに男の後姿を凝視《みつ》めていた。
 傘を半開に差しかけた男、風に逆ろうて海老のように身体《からだ》を曲げて、店を出て、右のほうへ行くのを見届けてから、早耳三次、台のところへ飛んで行って下を探った。
 手についたのは伽羅油だけ。付けておいた碁石がない――。
 三次、ものをも言わずに、出て行った男の跡を踏んだ。
 捲《まく》った空臑《からす
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