番頭と向き合った。二、三人客がはいって来た。三次も客と見せかけるために、前へいろいろな櫛《くし》笄《こうがい》の類を持ち出すように頼んで、それをあれこれと手にとりながら、声を潜めて言った。
「昨日煎餅屋の女房が来た時に出て行こうとした女、自身から進んで身柄取調べを受けた女、その女がお店で買った物を、あっし[#「あっし」に傍点]が一つ言い当てて見せやしょうか――こうっ、固煉《かたね》りの伽羅油だろう? どうだ?」
「ああそうでした。なるほどそうです。伽羅を一つお買い下すった。だが親分、どうしてそんなことがおわかりですい? それがまた、なんの関係《かかりあい》になるんですい?」
「その女は、昨夜あとからまた来たかえ?」
「いいえ。」
「よし。」と三次は何事か決心したように、「お前さん、その女の面にゃあ見覚えがあろうの?」
「さあ。べつにこれといって言いたてるところもございませんが、なにしろ奥まで通したんですから、見ればそれ[#「それ」に傍点]とはわかりましょう。」
「うん。女《やつ》が来たら咳払《せきばれ》えして下せえよ。いいけえ、頼んだぜ。」
 番頭は眼で承知のむねを示した。
 それから二人は待った。
 番頭と三次、来るか来ないか解らない昨日の伽羅油の女を、ここでこうして、気永に待ちかまえることになった。
 来るか来ないかはわからない。が、三次は来るという自信を持っていた。しかし、いつまで経っても女は来なかった。
 半時過ぎた。一時経った。その間に、女の客も二、三人あった。けれど、それらしい女は影も形も見せなかった。三次は焦《じ》れだした。ことによると大事を踏んで、午後《ひるすぎ》までには来ないかもしれない、もうここらで切上げようかしら、こうも思ってはみたものの、死んだお藤や、伊助の狂乱を考えると、ここまで漕ぎつけて打ち切ることは、さすがに三次にはできなかった。
「へん、こうなったら根較べだ。」
 心の中で独言をいって、三次はいっそう腰を落着けた。黙ってじい[#「じい」に傍点]と事件の連鎖《つながり》を見つめているうちに、三次には万事がわかったような気がした。今はただ、三次は待っていた。

      四

 雨だった。いつの間にか雨に変っていた。冷たい雨が音を立てて、沛然《はいぜん》と八百八町を叩いていた。
「好いお湿《しめ》りだ、と言いてえが、これじゃあ道路《みち》が泥《ぬか》るんでやりきれねえ。いや、降りやがる、ふりやがる――豪気なもんだ。」
 こう言って三次が、煙草《たばこ》の火玉を土間へ吹いた時、
「御免なさい。」
 という優しい声がして、おりから煽《あお》る横降りを細身の蛇の目で避けながら、唐桟《とうざん》ずくめの遊人ふうの若い男がはいって来た。三次はそっちを一眼見たきり、気にも留めずにいると、
「女物の羽織紐を一つ見せて下さい。」
 と言っている。
 嫌な奴だな、と思いながら、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》へ当てた手の指の間から、三次、それとなしに見守りだした。のっぺり[#「のっぺり」に傍点]した好い男で、何となくそわそわ[#「そわそわ」に傍点]している。そこは稼業《しょうばい》、こいつあおかしいぞ、と、三次、早くも気を締めた。
 そんなこととは知らないから、番頭はいい気なもの欠伸《あくび》まじりに、
「へえ――い。」
 とか何とか答えながら、言われた品を取りに背後《うしろ》へ向くと、男は思いきったように進んで、飾台《だい》の傍へ腰を下ろした。
 おやっ[#「おやっ」に傍点]と三次はきっ[#「きっ」に傍点]となった。番頭はまだうしろざまに紐の木箱を見立てている。
 と、男の手がするする[#「するする」に傍点]と動いて台の下へ辷って行った。それも瞬間、まさか碁石とは知らないから台の下から取った物を見もせずに素早く袂へ投げ込むと、男は何食わぬ顔で澄まし込んだ。ちょうどそのとき、番頭が紐の小箱を持って振り返った眼の前へ並べたので、男は何か低声で相談しながら、好みの品を物色し始めたが、結局、気に入ったのが一つもないと言って、何も買わずに店を出ようとした。
 今押さえようか、と三次は思った。が、昨日来たのは女だという。してみれば共犯《ぐる》に相違ない。それならここはわざと無難に落してやって、跡を尾《つ》けて大きな網を被せるほうが巧者《りこう》だと考え付いて、三次、静かに男の後姿を凝視《みつ》めていた。
 傘を半開に差しかけた男、風に逆ろうて海老のように身体《からだ》を曲げて、店を出て、右のほうへ行くのを見届けてから、早耳三次、台のところへ飛んで行って下を探った。
 手についたのは伽羅油だけ。付けておいた碁石がない――。
 三次、ものをも言わずに、出て行った男の跡を踏んだ。
 捲《まく》った空臑《からす
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