ね》に痛いと感ずるほど、両脚が、太く冷たかった。男は半町ばかり先を行く。三次、撥泥《はね》を上げて急いだ。

      五

 一度旅籠町の通りへ出て、あれから森田町天王町、瓦町を一丁目まで突っ切ったから、さては橋を渡って浅草御門へかかるかなと思いながら尾《つ》いて行くと、代地の角から右へ折れて、川に沿うて福井町を酒井左衛門様の下屋敷前へ出た。
 これから先は武家邸が多い。こんな人間は要がないはずだ。が、左に新橋《あたらしばし》がある。これを渡れば神田日本橋とどこまでも伸されるから、これならまず不思議はあるまい。
 ところが、男はあたらし橋も渡らずに、佐竹板倉両侯の塀下を通って、佐久間町二丁目も過ぎ、角の番屋の前から右にきれた。
 松永町だ。二軒目に永寿庵という蕎麦屋《そばや》がある。そこまで行くと、男はいっそう傘を窄《すぼ》めて、横手の路地へはいって行った。
 路地の奥、素人家作《しもたやづく》りの一軒建て、千本格子に磨きがきいて、ちょいと小粋《こいき》な住居《すまい》だった。
 これへ男の姿が消えたのを見澄《みす》ました早耳三次、窓ぎわへぴったり身を寄せて、家内《なか》のようすに耳を立てた。
 たださえ早耳と言われるくらいの三次、それが今は、その早耳をことさら押っ立てたのだから耐らない。逐一聞える。
「誰だえ、ああ、助さんかえ、お帰り、御苦労だったね。どうだったえ。」
 という怠《だる》そうな女の声。男が答えている。
「どうもこうもありゃあしねえ。しっかり握って出て来たまではいいが、途中で見りゃあ――へん、今日みてえなばかな目に遇ったこたあねえ。ああ嫌だ。嫌だ。」
「あら、どうしたのさ、この人は。貼り付いていなかったというのかえ?」
「いんや、あったにゃあった。あったにゃあったが、これだ、ほい、見てくんねえ。」
「嫌だよこの人は。ちょいとさ、こりゃあお前さん、碁石じゃないか。」
「碁石だよ。」
「碁石だよもないもんだ。おふざけじゃないよ。碁石と知って持って来るやつもないもんじゃないか。」
「へん、はじめから碁石と知って持って来たんじゃねえや。お前が言うにゃあ昨日のうちに細工《せえく》してあるというから、俺あ一件のつもりで剥がしてきたんだ。なんだな、やい、お前は珊瑚玉あ猫婆きめやがって、この俺を一ぺい嵌《は》めようと謀《たくら》んだんだな。」
「助さん、何を言うんだよ。お前さんこそ真物《ほんもの》はちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と隠しておいて独占めしようっていうんだろう。大方そんな量見だろうさ。」
「なにい?」
「おや、白眼《にら》んだね。おかしな顔だからおよしよ。忘れやしまいね、はばかりながらあたしゃ上総《かずさ》のお鉄だ。仕事にぶき[#「ぶき」に傍点]があるもんかね。昨日あの店で平珊瑚を盗んで、買った伽羅油で台の下へ貼りつけといて、出がけに騒がれたからわざ[#「わざ」に傍点]と身柄を見せて威張《いば》ってきたのも、こうやって後から、お前さんに取りに行って貰うためだったのさ。」
「それを俺が、今日行ってみると、なるほど油が強いから貼り着いちゃいたが、珊瑚でなくて――。」
「この碁石かい。」
「お鉄。」
「助さん。」
「ひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると足がついたかもしれねえな。」
「こりゃあこうしちゃいられないよ。」
 この時、がらり[#「がらり」に傍点]表の格子が開いて、早耳三次が土間に立った。
「ええ、亀安から碁石を戴きに参りました。裏表に花川戸早耳三次の身内が詰めております。まずお静かにおられましょう。」
 とずい[#「ずい」に傍点]と上り込んで、
「え、こうっ、手前らあ何だぞ、人殺し兇状だぞ。黙れっ、やかましいやい。やい、お鉄、手前と一しょに店にいた女はな、あの時番頭に異なこと言われて突っ立つ拍子に、帯の上前が台の下に引っかかって、手前の貼った珊瑚が帯の中へ落ち込んだんだ。そのために盗賊の汚名を被ても言開きができず、ゆうべ大川へ身を投げた。いわば手前が殺したようなもんじゃねえか。そればかりじゃねえ、その夫も泣きの涙で死ぬばかりだ。これも手前が手にかけたも同然だ。帯に着いていた固煉《かたね》り油から手繰りだして、俺あすぐと手前たちの手品を見破った。だから台の下へ碁石を貼って、じつあ今朝から網を張って待っていたんだ。鉄に助か、どうだ、おそれいったかっ。」
「お前さんは、どこの誰だい。」
「俺か、俺あ早耳三次だ。」
 と聞いては悪党二人、さすがに諦めがいい。手っ取り早く神妙に観念してしまった。重敲《じゅうたたき》というから百の笞《むち》、その上伝馬町御牢門前から江戸払いに突っ放された。
 文久二年の話である。



底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
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