が、よほどの覚悟をきめているらしく、滔々《とうとう》たる水に身を任せて音《ね》一つ立てなかった。
 抜手を切って泳ぎ着いた三次、心得があるから頓《とみ》には近寄らない。瞳《め》を凝らして見るとどうやら女らしい。海草のような黒髪が水に揺れて、手を振ったのは救助御無用というこころか。が、もとより、へえ、そうですか、と引っ返すわけにはゆかない。強く脚を煽《あお》って前に廻った三次、背中へ衝突《ぶつか》って来るところを浅く水を潜って背後《うしろ》へ抜けた。神伝流で言う水枕、溺死人引揚げの奥の手だ。藁をも掴むというくらいだから真正面《まとも》に向っては抱き付かれて同伴《みちづれ》にされる。うしろへ引っ外しておいて、男なら水褌《すいこん》の結目へ手を掛けるのだが、これは女だから、三次、帯を押さえた。左手で握ってぐっ[#「ぐっ」に傍点]と引き寄せ、肘を相手の腋の下へ挾むようにして持ち上げながら、右手で切る片抜手竜宮覗き。水下三寸、人間の顔は張子じゃないから濡れたって別条ない。それを無理に水から顔を上げようとするから間違いが起る。三次、女を引いて楽々岸へ帰った。
 岸に立って舟よ綱よと騒いでいた連中、総掛りで引き上げてみると、水を多量に呑んだか、なにしろ寒中のことだから耐らない。女はすでに事切れていた。
 近辺の者だから、皆一眼見て水死人の身許は知れた。材木町の煎餅屋渡世《せんべいやとせい》瓦屋伊助の女房お藤というのが、その人別であった。
 三次が指図するまでもなく、誰か走った者があると見えて、瓦屋伊助が息急《いきせき》きって駈けつけて来た。伊助、初めは呆然として突っ立ったきり、足許の女房の死体を見下ろしていたが、やがてがっくり[#「がっくり」に傍点]と膝をつくと、手放しで男泣きに哭《な》きだした。集った人々も思わず提灯の灯を外向《そむ》けて、なかには念仏を唱えた者もあった。
 そのうちに、
「畜生ッ!」
 と叫んで、伊助が起き上った。眼が血走って、顔は狂気のように蒼褪《あおざ》めていた。
「己れッ! おふじの仇敵《かたき》だ――。」
 ふらふら[#「ふらふら」に傍点]と歩き出そうとするのを、三次が抱きとめた。
「おお親分か――三次親分、お騒がせ申して、また、あんたが引き揚げて下すったそうで、まことに、あいすみません、あいすみません。だが、こ、これはあんまりでげす。こうまでして証を
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