》に紛《まぎ》れて追い越した。橋の上を老人らしい侍が行く。その影のように、別の侍が後から刻《きざ》み足に吸い寄ったと思う間に、先なる老人の頭上高く白い光りが閃めいた。が、この時、三次は夢中で長身痩躯の侍の背中に抱きついていた。
 三次と老人を相手に侍はかなり暴れたけれども、橋の上だから霙で辷《すべ》って足場が悪い。そのうちに悪運つきたか、不覚にも刀を取り落した。そこへ蜻蛉の辰が息杖を持って駈け付けて、
「こん畜生、さんぴん[#「さんぴん」に傍点]奴《め》!」
 と侍を打据えにかかると、うるさくなったものか侍は大手を拡げて闘意のないことを示したが、それも一瞬、いきなり脱兎《だっと》のように遁《に》げだした。足を狙って辰が杖を投げた。それが絡んで※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒れた。三次が飛んで行って押さえ込んだ。
 老人の提灯を突きつけて頭巾を剥《は》いだ時、驚いたのは三次でなくて辰だった。この、袈裟がけ斬りの侍こそ、相棒の若い駕籠屋であったのである。しかも、泥だらけな法被を着た捕親が今朝の花川戸であったから、辰は、それこそ蜻蛉のように大きな眼玉をぱちくり[#「ぱちくり」に傍点]させて空唾《からつば》を呑んだ。
 老人は町奉行池田播磨守手付の用人伴市太郎という人で、堀家の夜明しの碁会から独り早帰りする途中だったから、さっそく堀邸内の一間を借りて侍を入れておき、審《しら》べの順序だから取急ぎ吟味与力《ぎんみよりき》の出張を求めた。
 元治元年三月二十七日筑波山に立籠った武田耕雲斎《たけだこううんさい》の天狗党《てんぐとう》が同年四月三日日光に向う砌《みぎ》り、途中から脱走して江戸へ紛れ込んだのが、この袈裟がけの辻斬人水戸浪士の伊丹大之進であった。世に在るうちは国許藩中において中小姓まで勤め上げて五人|扶持《ぶち》を食んでいたが、女色のことで主家を浪々して早くから江戸本所割下水《えどほんじょわりげすい》に住んでいた。前髪が取れるか取れないに女出入で飛び出すくらいだから、この大之進性来無頼の質《たち》だったに相違ない。これが、御老中お声掛り武州《ぶしゅう》清久《きよく》の人戸崎熊太郎、当時俗に駿河台の老先生と呼ばれていた大師匠について神道無念流の奥儀をきわめたのだからたまらない。無念流は神道流の別派で正流を天心正伝神道流と言い、下総《しもうさ》香取郡《かとりぐん》飯篠村《いいしのむら》の飯篠山城守《いいしのやましろのかみ》家直入道長威斎《いえなおにゅうどうちょういさい》が開いたもの、「此流《このりゅう》勝負を以仕立教也《もってしたつるおしえなり》」とその道の本にさえあるところを見ると、よほど攻めを急いだ実用一方の太刀筋であったらしい。自暴自棄な年若の大之進が腕ができるにしたがい人斬り病に罹《かか》ったのも、狂人《きちがい》に刃物の喩《たと》え、無理からぬ次第であったとも言える。人が斬りたいばかりに天狗へ走った大之進も理窟が嫌いなところからまた江戸へ舞い戻ってみると、天下は浪人の天下、攘夷の冥加金《みょうがきん》を名として斬奪群盗《きりとりぐんとう》が横行している始末に、大之進つくづく考えると徳川三百年の余命《よめい》幾何《いくばく》とも思われない。なんらかの形で近く御治世に変革があるものと観なければならないが、そうなった暁先立つものは商法の金子《きんす》であろう。その資金の調達には夜盗が一番|捷径《ちかみち》だが、押込みの方は浪士が隊を組んでいるから自分は一つ単独行動に辻斬と出かけてやれ、それも盗賊改めが厳しいので、駕籠でも担いで夜の街を歩きまわり、斬る時だけ侍の服装《こしらえ》をして疑いを浪人の群へ嫁《か》し、己れは下素《げす》の駕籠屋になりきって行こうと思いついた。そこで四手駕籠の前棒に細工をして一|貫子近江守《かんしおうみのかみ》の一刀を抜身のままで填《は》め込み、侍支度を小さな風呂敷包にして棒根へくくりつけ、誓願寺裏へ駕籠を置きざりにしておいては蜻蛉の辰を後棒にして、侍になったり駕籠かきに返ったり、電光石火《でんこうせっか》の早変り、袈裟がけの覚えの一太刀に江戸の町を荒し廻っているのだった。
 前年の晩秋どこかへ用達《ようた》しに行った帰り、夏|嚊《かかあ》に死なれて悄気《しょげ》きっていた辰は途上で未知の大之進に掴まって片棒かつぐことになったのだが、名も言わず聞かず、ほとんど口もきかずに、ただ一晩駕籠を担いで歩きさえすれば客があってもなくても朝別れる時には大之進が相当の鳥目《ちょうもく》を渡してくれるので、怪しいとは思いながら毎夜約束の刻限には誓願寺裏へ出かけて行った。大之進は必ず先に来て待っていた。こうしてどこの誰とも互いに識らない二人が、一つ駕籠をかついでいたのである。時々暗い個所《ところ》で駕籠を停めて前棒が闇黒《やみ》に隠れることがあったが、酒代《さかて》でも強請《ねだ》りに客を追うのだろうくらいに考えて、辰は別に気にもとめなかったというが、迂濶《うかつ》といえばこれ以上迂濶な話はないけれど、蜻蛉の辰という人物にはありそうなことだった。が、自分でもいくらか臭いにおいを嗅いだかして、饂飩《うどん》を売りに出るなどと辰は世間体を誤魔化していたのである。
 早耳三次が白眼《にら》んだとおり、甚右衛門店のお菊殺しは大之進の仕業《しわざ》であった。十四日夜の四つ時、例によって二人が悪業の駕籠を肩に天王町の通りを材木町へ差しかかると、向側から来た人影が茶屋町のとある路地へ切れた。それを見ると久方ぶりに殺心むらむら[#「むらむら」に傍点]と燃え立った大之進は、駕籠を捨てて追い縋り井戸端で二つに斬って水へ沈めた。その間、すこし離れたところに駕籠を守って辰が放心《ぼんやり》待っていたというから、こいつ[#「こいつ」に傍点]の眼玉は大きいだけでよくよく役に立たなかったものとみえる。ふ[#「ふ」に傍点]とした悪戯気《いたずらげ》から辰の家とは知らずにお菊の下駄を抛り込んだり、障子に血の痕を付けて置いたりしたのが、大之進の運の尽きであった。玳瑁の櫛も三次の推量どおり、大之進が辰に与えたものであった。
 お白洲《しらす》に出ても大之進は口を緘《とざ》して語らなかった。
「この者をお咎めあるな。不浄人に力を藉して拙者を絡めたくらい、下郎は何事も存じ申さぬ。あくまでも伊丹大之進ただ一人の所存でござる。」
 何を訊かれてもかく言うだけだった。早耳三次は家主甚右衛門ならびに茶屋町町年寄一統とともに、改めて辰のために何分のお慈悲を願い出たという。



底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
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