ろうと思う。すると数え年九十四になるわけで、何分|年齢《とし》が年齢《とし》だから脚腰が立たなくて床についてはいるが耳も眼も達者である。ただ弱小《じゃくしょう》不忘《わたくし》ごときの筆に当時の模様を巨細に写す力のないことを、私は初めから読者と老人とにお詫びしておきたい。
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一
松の内も明けた十五日朝のことだった。起抜けに今日様《こんにちさま》を拝んだ早耳三次が、花川戸の住居でこれから小豆粥《あずきがゆ》の膳に向おうとしているところへ、茶屋町の自身番の老爺があわただしく飛込んで来た。吃《ども》りながら話すのを聞くと、甚右衛門店《じんえもんだな》裏手《うらて》の井戸に若い女が身を投げているのを今顔を洗いに行って発見《みつけ》たが、長屋じゅうまだ寝ているからとりあえず迎えに来たのだという。正月早々朝っぱらから縁起でもないとは思ったが御用筋とあっては仕方がない。嫌な顔をする女房を一つ白睨《にら》んでおいて、三次は老爺について家を出た。泣出しそうな空の下に八百八町は今し眠りから覚めようとして、川向うの松平越前や細川|能登《のと》の屋敷の杉が一本二本と算
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