一流に徹した剣客の狂刃であろうと、町奉行配下の与力《よりき》同心《どうしん》を始め町方の御用聞きに到るまで、言い合わしたように町道場の主とその高弟たち、さては諸国から上って来た浪人の溜りなどへしきりに眼を光らせてきたが、袈裟がけの辻斬りは一向に熄《や》まないうちに、年がかわった。さすがに松の内だけは血腥《ちなまぐさ》い噂もないと思っていると、春の初めの斬初めでもあるまいが、またしてもここに甚右衛門井戸の女殺しとなったのである。

      二

 殺された女は、井戸のすぐ前の家に父親の七兵衛と一緒に住んでいるお菊という娘であった。三次たちの気勢《けはい》を聞きつけて起きて来た長屋の者が消魂《けたたま》しく戸を叩いたので、七兵衛も寝巻姿で飛出して来たが井戸端の洗場に横たわっている娘の死骸を見ると、駈寄って折重なったまま一声名を呼んだのを最後にそれきり動かなくなってしまった。狼狽《あわ》てて抱起すとがっくり[#「がっくり」に傍点]首が前へのめって、七兵衛はすでに息を引取っていた。現代《いま》の言葉でいうと心臓痲痺《しんぞうまひ》であろう、あまりな不意の驚きに逆上したとたん、あえなくなったものらしいが、引続いたこの二つの凶事に長屋じゅうはたちまち上を下への騒ぎになった。
 七兵衛は町内の走使いをしていたから三次も識っていたし、独り娘のあったことも聞いてはいたが、この二人家内が二人ともこうなったのだから、三次は集って来た長屋の衆の口を合わせてそこから何か掘出すよりほか探索の踏出し方がなくなった。お菊は稀に見る孝行娘で近所のお針などをして貧しい父を助け、傍の見る眼も羨ましいほど父娘仲もよかったとのこと。死顔を見てもわかるとおり十人並以上の器量だから若い者の口の端に上らぬではなかったが、十八にはなっていたものの色気付きが遅いのか、その方の噂はついぞなかった。昨十四日は年越しの祝いでお菊は型ばかりの松飾|注連繩《しめなわ》を自分で外した後、遅れた年賀の義理を済ませに小梅の伯母のところへ行くとか言って、賑やかに笑いながら正午少し過ぎに家を出て行った。これは同じ長屋のお神の一人が見て、現に会話《はなし》を交したというのだから間違いはあるまい。
 お菊の死骸に跨がって切口を睨んでいた三次は、崩れた島田に引っ掛っている櫛を見付けると、手早く抜取って懐中へ納めた後、父娘の仏をひとまず世話人の家へ引取らせた。あとで井戸の周囲《まわり》を見ると、土に血の跡が滲み込んで、洗場の石の角々にも流れ残った血糊が赤黒く付着《くっつ》いている。言うまでもなく犯人《ほし》はここでお菊を殺して、音のしないようにと水桶に縛りつけて井戸へ下ろしてから、血刀や返り血を洗って行ったものであろうが、そうとすれば少しは物音もしたはずだと思って、三次が傍の人々に訊いてみると、そのなかでこういう申立てをした者があった。
「へえ、わっちが眠りについて少しばかりとろとろ[#「とろとろ」に傍点]としたかと思うころ、井戸端で人の呻きと水を流す音が聞えましたが、きっとまた蜻蛉《とんぼ》野郎が食い酔って来やあがって水でも呑んでいるんだろうと、わっちは別に気にも懸けずにね、へえ、そのまま眠ってしまいましたよ。」
「何時《なんどき》でした。」
「さあ、かれこれあれで四つでしたかしら。」
 これを聞いて思い出したものか、同じことを言う者が二、三人出て来たので、三次は懐中から今の櫛を出して一同に見せた。玳瑁《たいまい》の地に金蒔絵《きんまきえ》で丸にい[#「い」に傍点]の字の田之助《たゆう》の紋が打ってあるという豪勢な物、これが、その日暮しのお菊の髪に差さっていたのがこの際不審の種であった。すると、背後の方から伸び上って見ていた一人が、それはたしか蜻蛉が持っていた櫛で、歳末《くれ》に、安く売るから買わないかと言って見せられたことがあると証言した。
「先刻から蜻蛉蜻蛉って言いなさるがそのとんぼ[#「とんぼ」に傍点]ってなあいったい何ですい。」
 三次が訊いた。人々の答えによると、井戸を隔ててお菊方と向いあって、眼玉の大きいところから蜻蛉の辰《たつ》と呼ばれている中年者が住んでいるが、去年の夏、女郎上りの嬶《かかあ》に死なれてからは、昼は家にごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]して日暮れから夜鳴饂飩《よなきうどん》を売りに出ているとのこと。
「おうっ、辰がいねえぞ。」
 誰かがこう言って辺りを見廻した。それにつれて皆が騒ぎだした。
「このどさくさ[#「どさくさ」に傍点]に寝ている者は辰でもなけりゃありゃしねえ――辰やあい。」
「蜻蛉うっ。」
「辰うっ!」
「とんぼ、つんぼ!」
 長屋の衆が口々に喚《わめ》くのを三次は鋭く押さえておいて、つ[#「つ」に傍点]と足許の水桶に眼を落した。
 釣瓶繩のさきについている井
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