早耳三次捕物聞書
霙橋辻斬夜話
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)経師屋《きょうじや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)江戸|花川戸《はなかわど》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]
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友人の書家の家で、私は経師屋《きょうじや》の恒さんと相識《しりあい》になったが、恒さんの祖父なる人がまだ生きていて、湘南《しょうなん》のある町の寺に間借りの楽隠居をしていると知ったので、だんだん聞いてみると、このお爺さんこそ安政《あんせい》の末から万延《まんえん》、文久《ぶんきゅう》、元治《がんじ》、慶応へかけて江戸|花川戸《はなかわど》で早耳の三次と謳われた捕物の名人であることがわかった。ここに書くこれらの物語は、古い帳面と記憶を頼りに老人が思い出しながら話してくれたところを私がそのままに聞書したものである。乙未《きのとひつじ》だというから天保《てんぽう》六年の生れだろうと思う。すると数え年九十四になるわけで、何分|年齢《とし》が年齢《とし》だから脚腰が立たなくて床についてはいるが耳も眼も達者である。ただ弱小《じゃくしょう》不忘《わたくし》ごときの筆に当時の模様を巨細に写す力のないことを、私は初めから読者と老人とにお詫びしておきたい。
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一
松の内も明けた十五日朝のことだった。起抜けに今日様《こんにちさま》を拝んだ早耳三次が、花川戸の住居でこれから小豆粥《あずきがゆ》の膳に向おうとしているところへ、茶屋町の自身番の老爺があわただしく飛込んで来た。吃《ども》りながら話すのを聞くと、甚右衛門店《じんえもんだな》裏手《うらて》の井戸に若い女が身を投げているのを今顔を洗いに行って発見《みつけ》たが、長屋じゅうまだ寝ているからとりあえず迎えに来たのだという。正月早々朝っぱらから縁起でもないとは思ったが御用筋とあっては仕方がない。嫌な顔をする女房を一つ白睨《にら》んでおいて、三次は老爺について家を出た。泣出しそうな空の下に八百八町は今し眠りから覚めようとして、川向うの松平越前や細川|能登《のと》の屋敷の杉が一本二本と算《かぞ》えられるほど近く見えていた。
東仲町が大川橋にかかろうとするその袂《たもと》を突っ切ると材木町、それを小一町も行った右手茶屋町の裏側に、四軒長屋が二棟掘抜井戸を中にして面《むか》い合っている。それが甚右衛門店であった。
自身番の老爺が途中で若い者を二人ほど根引にして、一行急ぎ足に現場へ着いた時には界隈は寂然《ひっそり》として人影もなかった。三次が井戸を覗いて見ると、藻の花が咲いたように派手な衣服《きもの》と白い二の腕とが桶に載って暗い水面近く浮んでいた。それ[#「それ」に傍点]っというので若い者が釣瓶《つるべ》を手繰《たぐ》って苦もなく引揚げたが、井戸の縁まで上って来た女の屍骸を一眼見て、三次初め一同声も出ないほど愕《おどろ》いてしまった。
女は身投げしたのではない。誰かが斬殺してぶち込んだのである。しかもその切り口、よく俗に袈裟《けさ》がけということを言うがまさにそれで、右の肩から左乳下へかけてばらりずん[#「ばらりずん」に傍点]とただの一太刀に斬り下げて見事二つになった胴体は左|傍腹《わきばら》の皮肌《かわ》一枚でかろうじて継がっていた。石切梶原ではないが刀も刀斬手も斬手といいたいところ、ううむ[#「ううむ」に傍点]と唸ると三次は腕を組んで考えこんだ。
三次が考えこんだのも無理はない。過ぐる年の秋の暮れから正月へかけて、ひときわ眼立った辻斬がたださえ寒々しい府内の人心を盛んに脅かしていた。当時のことだから新刀試《あらものだめ》し腕試し、辻斬は珍しくなかったが、そのなかに一つ、右肩から左乳下へかけての袈裟がけ斜《はす》一文字の遣口《やりくち》だけは、業物《わざもの》と斬手の冴えを偲《しの》ばせて江戸中に有名になっていた。殺される者には武士もあった、町人もあった、女子供さえあった。昨夜《ゆうべ》はあそこ、今朝はここといった具合に、ほとんど一夜明けるたびに生々しい袈裟斬りの屍体が江戸のどこかに転がっているというありさまだった。誰も姿を見た者はないがもちろん侍、しかも剣の道に秀でた者の仕業であることは何人も認めざるを得なかった。死骸はいつも一太刀深く浴びて胸から腹へ大きな口を開いていたが、けっして切って落した例《ためし》はなく皮一重というところで刀を留めて危なく胴をつないでおくのがこの辻斬の特徴であった。これはとうてい凡手の好くするところではない。必ずや
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