戸の水汲桶である。これにお菊の死骸を結んで沈めたのだから、桶一杯の水が紫色に濁っていたが、三次が足を掛けて水を溢すと、底から、お菊の黒塗の日和下駄《ひよりげた》が片方だけ出て来た。
誰もお菊の帰って来たのを見た者はなかった。留守をしていた父親七兵衛は、あまり帰宅《かえり》が遅いのでてっきり[#「てっきり」に傍点]小梅に泊ることと思い、昨夜《ゆうべ》は寒さも格別だったから早く締りをして先に寝たものらしいが、年ごろの娘がそう更けてから夜道を帰って来るとも思われないから、まず七兵衛初め長屋の者の寝入初《ねいりばな》、この井戸端で水音がしたという亥《い》の上刻は四つごろの出来事であろうと、三次はその日和下駄を凝視《みつ》めながら考えた。
井戸にでも落ちたか、片っぽの下駄はどこを探してもない。二つ折れに屈んで地面を検《しら》べると、井戸の縁に片足かけて刀に滴る血潮を振り裁《さば》いたものとみえて、どす[#「どす」に傍点]黒い点が土の上を一列に走ってもよりの油障子の腰板へ跳ねて、障子の把手にも歴然《はっきり》と血の手形が付いていた。三次は振向いた。
「誰の家ですい、ここあ?」
「へえ、そこがその、蜻蛉の辰の――。」
という声を皆まで聞かずに、三次が障子に手を掛けるとさらり[#「さらり」に傍点]と開いた。素早くはいり込んで後を閉めながら見ると、障子の内側にもおびただしい血の痕がある。しかも黒塗りのお菊の日和が片方、血にまみれて土間に転がっていた。
「辰さん!」
狭い暗い家に三次の声が響いた。と、すぐに人の起きて来るようすに、三次は思わず懐に十手の柄を握り締めた。
三
長屋の連中が蜻蛉の辰の軒下に立って呼吸を凝《こ》らしていると、なかでは長いこと話が続いたのち、やがて、三次ひとり狐憑《きつねつ》きのような顔をしてぼんやり出て来た。
「蜻蛉はいましたか。どうしました?」
待ちあぐんでいた人々はいっせいに三次を取り巻いた。
「いましたよ。いますよ。」
と三次はなぜか溜息を吐いた。
「何せこっちあ早耳の親分だ。野郎、おそれいりやしたろう?」
「誰がですい?」
「誰がって親分、呆《とぼ》けちゃいけねえ、犯人《ほし》さあね、辰さ。とんぼの畜生、おいらがお菊坊をばっさり[#「ばっさり」に傍点]やったに違えねえと、ねえ親分、即《そく》に口を割りやしたろう、え?」
「
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