やかましいやい!」
 急に三次が呶鳴りだした。探索に推量《あて》が付いて頭脳《あたま》の働きが忙しくなると、まるで別人のように人間が荒っぽくなるのが三次の癖だった。これを早耳三次の伝法風《でんぽうかぜ》といって、八丁堀御役向でさえ一目置いていたほど、当時江戸御用聞のあいだに有名な天下御免の八つ当りであった。今の三次がそれである。長屋の衆は呆気にとられてしまった。
「えこう、皆聞けよ。」と三次は辺りを睨めつけて、「蜻蛉蜻蛉ってそうがら[#「がら」に傍点]に言うねえ。蜻蛉はな、大事な蜻蛉なんだ。手前ら何だぞ、蜻蛉の辰に指一本差そうもんならこの三次が承服しねえからそう思え、いいか、月番が来ても旦那衆が見えても辰のことだけあ※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気《おくび》にも出すな。下手な真似して蜻蛉に手出ししてみろ、片っ端から三次が相手だ――退け、俺あ帰る。思惑《おもわく》があるんだ。」
 呶鳴るだけどなってしまうと、三次は人を分けて飄然《ひょうぜん》と帰って行った。
 間もなく、申訳なさそうに血だらけの日和下駄を提げて蜻蛉の辰公が飛出して来て、先に立ってあれこれ[#「あれこれ」に傍点]と世話を焼き始めた。みんなさすがに白い眼を向けたが、辰は一こう平気だった。
 渡世人と岡っ引は人柄を読むことと場の臭いを嗅ぐことが大切である。ことに剣術の使手は眼の配りと面擦《めんず》れでわかるものだが、蜻蛉の辰が寝呆け眼をこすりながら出て来た時、三次は一眼見てこれは大きに違うと思った。
 辰はいかさま眼の大きな、愚鈍というよりは白痴に近そうな男だった。夜|饂飩《うどん》を売りに出るので帰りは早朝になる。したがってこの時刻は辰にとっては白河夜船の真夜中だから、戸外の騒ぎを知らずに熟睡していたというのもけっして不自然なことはない。障子の血形や血まみれのお菊の下駄を突きつけられても、辰はぬう[#「ぬう」に傍点]と立ったまんま、どうしてそんな物がそこにあったのか少しも解らないと申述べた。
 むしろ融通のきかない方かもしれないが白を切りえる質《たち》ではない、三次は辰をこう踏んだ。だいたいこんな、鰹《かつお》一匹満足に料れそうもないぶき[#「ぶき」に傍点]らしい男に、ああも鮮かに生胴を斬る隠し芸があろうとも思われないし、それに、いくら少したりないとはいえ、自分の家の入口に血を付けたり仏の下足
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