人の家へ引取らせた。あとで井戸の周囲《まわり》を見ると、土に血の跡が滲み込んで、洗場の石の角々にも流れ残った血糊が赤黒く付着《くっつ》いている。言うまでもなく犯人《ほし》はここでお菊を殺して、音のしないようにと水桶に縛りつけて井戸へ下ろしてから、血刀や返り血を洗って行ったものであろうが、そうとすれば少しは物音もしたはずだと思って、三次が傍の人々に訊いてみると、そのなかでこういう申立てをした者があった。
「へえ、わっちが眠りについて少しばかりとろとろ[#「とろとろ」に傍点]としたかと思うころ、井戸端で人の呻きと水を流す音が聞えましたが、きっとまた蜻蛉《とんぼ》野郎が食い酔って来やあがって水でも呑んでいるんだろうと、わっちは別に気にも懸けずにね、へえ、そのまま眠ってしまいましたよ。」
「何時《なんどき》でした。」
「さあ、かれこれあれで四つでしたかしら。」
 これを聞いて思い出したものか、同じことを言う者が二、三人出て来たので、三次は懐中から今の櫛を出して一同に見せた。玳瑁《たいまい》の地に金蒔絵《きんまきえ》で丸にい[#「い」に傍点]の字の田之助《たゆう》の紋が打ってあるという豪勢な物、これが、その日暮しのお菊の髪に差さっていたのがこの際不審の種であった。すると、背後の方から伸び上って見ていた一人が、それはたしか蜻蛉が持っていた櫛で、歳末《くれ》に、安く売るから買わないかと言って見せられたことがあると証言した。
「先刻から蜻蛉蜻蛉って言いなさるがそのとんぼ[#「とんぼ」に傍点]ってなあいったい何ですい。」
 三次が訊いた。人々の答えによると、井戸を隔ててお菊方と向いあって、眼玉の大きいところから蜻蛉の辰《たつ》と呼ばれている中年者が住んでいるが、去年の夏、女郎上りの嬶《かかあ》に死なれてからは、昼は家にごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]して日暮れから夜鳴饂飩《よなきうどん》を売りに出ているとのこと。
「おうっ、辰がいねえぞ。」
 誰かがこう言って辺りを見廻した。それにつれて皆が騒ぎだした。
「このどさくさ[#「どさくさ」に傍点]に寝ている者は辰でもなけりゃありゃしねえ――辰やあい。」
「蜻蛉うっ。」
「辰うっ!」
「とんぼ、つんぼ!」
 長屋の衆が口々に喚《わめ》くのを三次は鋭く押さえておいて、つ[#「つ」に傍点]と足許の水桶に眼を落した。
 釣瓶繩のさきについている井
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング