前まで来ると客がついた。それから二人は本式に息杖を振って、角《かど》ごとに肩をかえながら、下谷の屋敷町を真直に小普請手代を通り過ぎて、日光御門跡から湯島の切通《きりどお》しを今は春木町の方へ急いでいるのだった。
月が隠れたから、五つ半の闇黒《やみ》は前方《まえ》を行く駕籠をと[#「と」に傍点]もすれば呑みそうになる。三次は足を早めた。ひやり[#「ひやり」に傍点]と何か冷たいものが頬に当った。霙《みぞれ》になったのである。
三丁目を越えて富坂へかかったところで、駕籠が止まった。客は降りて駕籠賃を払い、左の横町へはいって行った。すると、黒法師が一つ駕籠を離れてするする[#「するする」に傍点]と後を追った。三次の立っているところは表通りだから何も見えないし何も聞えない。そのうちに黒法師が駕籠へ戻って、どうやらこっちへ引っ返して来るらしいから三次は急いで物蔭に身を隠すと、蜻蛉の辰と若い駕籠かきが無言のままで前を過ぎた。肩にした丸太に駕籠の屋根を支える竹が触ってぎっ、ぎっと軋《きし》む音を耳近く聞いた時、三次は何となく背中に水を浴びたように全身|惣毛立《そうけだ》つのを感じたという。
駕籠も遠ざかって行くが横町が気になるので、三次は小走りにそのほうへ進んだ。暗いから足許が見えない。重い大きな物に蹴躓《けつまず》いてあっ[#「あっ」に傍点]と思うと諸に転んだ、町の真中に寝ているやつがある。起上りざま鼻を摺《す》りつけんばかりにして見ると、武家屋敷出入の骨董屋の手代とでも言いたいお店者《たなもの》が朱《あけ》に染んで倒れていて、初めは二人かと思ったほど、上半身が物の見事に割《さ》かれていた。
さすが鉄火な早耳三次、血泥を掴んだまましばらくそこにへたばっていたが、やがてふらふら[#「ふらふら」に傍点]と立上ると、
「どこのどなた様か存じませんがあっしは少し急ぎます。成仏《じょうぶつ》なすって下せえやし――南無阿弥陀仏。」
も口の中、耳も早けりゃ脚も早い、おりから風さえ加わって横ざまに降りしきる霙を衝いて、三次は驀地《まっしぐら》に駕籠を追って走った。
定火消《じょうびけし》を右に見てあれから湯島四丁目へかかると藤堂様のお邸がある。追いついたのは聖堂裏であった。そのころは杉の大木が繁っていてあそこらは昼でも薄気味の悪いところ、ましてや夜。人通りはない、先へ行く駕籠のぴしゃ
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