)
札木合《ジャムカ》 (片手に抱いて)これ、なにもそんなに悲しむことはない。わしは、全種族の潰滅を期しても、お前をきゃつの手に渡そうなどとは思わないのだ。
合爾合《カルカ》姫 はい。そのお言葉で、妾はもう、死んでも思い残りはございません。ついては。――
札木合《ジャムカ》 (突然回顧的に)なあ合爾合《カルカ》、お前がまだ瑣児肝失喇《ソルカンシラ》家の娘で、余も成吉思汗《ジンギスカン》も、名もなき遊牧の若者だったころ、二人でお前の愛を争った。おれが勝ってお前を得たことが、成吉思汗《ジンギスカン》の心にこの針を植え、きゃつを、かかる惨虐無道の悪魔にしてしまったのだ。たとい戦いには敗れ、星月の旗の名誉は失っても、おれにはまだお前があるぞ。ははははは、こ、これ、この合爾合《カルカ》があるぞ。
合爾合《カルカ》姫 そんなにおっしゃって下すって、ほんとうに、もったいのうございます。つきましては、妾の心一つで、この札荅蘭《ジャダラン》族の人たちが助かり、またあなた様もこのお城も、事無きを得ますならば、あなた、妾は決心いたしました。どうぞこの合爾合《カルカ》を成吉思汗《ジンギスカン》の陣営へお遣し下さいませ。
札木合《ジャムカ》 (急き込んで)な、なに? お前は何を言う。この上おれを、札荅蘭《ジャダラン》の札木合《ジャムカ》は、妻の操で一身の安全を買った腰抜け武士だと、後世までの笑い草にしたいのか。軍には敗れたが恋には勝った、それがこの札木合《ジャムカ》の、死際の唯一の慰めだということが、合爾合《カルカ》! お前には解らないのか。
合爾合《カルカ》姫 (必死に)いいえ、ただ妾は、あなた様と、城下の人たちをお助けしたいばっかりに、あの蛇のような執念ぶかい成吉思汗《ジンギスカン》に、この身を――。
札木合《ジャムカ》 いや! 聞きたくない。お前、気でも違ったのか。そんなことを考えるだけで、このおれの胸は張り裂けんばかりだ。お前の身を守るためには、わしの命はおろか、城も惜しくはない。城下の民など、砂漠の鬼と消えるがいい。
合爾合《カルカ》姫 (追い縋って)いえ、あの、わたくしにも考えがございますから、どうぞ、一人で城を出ることをお許し下さいまし。
札木合《ジャムカ》 ええいっ、くどい! お前には、かほどまでに言うおれの心がわからないのか。(参謀へ)最後の一戦だ。みな来い!
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泣いて取りすがる合爾合《カルカ》姫を振り解いて、札木合《ジャムカ》は決然と露台から奥へ駈け去る。参謀ら続いて走り入る。長い間。
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侍女一 (良人の後を見送ったのち、首垂れて考え込んでいる合爾合《カルカ》姫に近づき)奥方様、あれほどまでにおっしゃる殿様のお胸の中、女子として、奥方さまもさぞ本望でございましょう。もはやわたくしども一同、奥方様のお供をして、戦死の覚悟ができましてございます。
侍女二 (正面の露台へ駈け出て)あれ! どうやら砂漠の地平線が、ぽうっと青白くなってまいりました。月が昇るのではございますまいか。月の出を合図に、あの恐しい成吉思汗《ジンギスカン》軍の荒武者どもが、乗り込んで来るとのこと。ああ、どうしたらよいか――。
侍女三 あれあれ! ほんとうにあの砂丘の果てに、ほのかに青い月の光がさし初めました。ああ、もう何刻《なんとき》の生命《いのち》やら――おお! 中庭で、この軍使を煮る油を沸かしはじめました。ああ、何という恐しい! (と眼を覆う)
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露台の向うから、紫いろの油の煙りが濛々と立ち昇る。合爾合《カルカ》姫と侍女らは、凝然と露台の外を見守る。
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合爾合《カルカ》姫 (ひとり言のように)昔の成吉思汗《ジンギスカン》の恋が、ここへ来て、こんな恐しい仕返しをしようとは――。(泣く)
侍女二 お察し申し上げます。
侍女一 でも、殿様のあのお言葉、ほんとうに女冥利、嬉し涙が溢《こぼ》れてなりませぬ。
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この時、血染れの将校一人、露台上手から走り込んで来て、叫ぶ。
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将校 (妃に敬礼して、木華里《ムカリ》の看視兵へ)おい! 表門に石を積んで、かなわぬまでも備えをするのだ。猫の手も借りたい場合だ。その軍使は縛ってあるのだろう。そいつをそのままにして、お前たち、皆来い。
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看視兵ら、声に応じて将校とともに、露台上手へ駈け去る。舞台ほの暗く、正面の露台から星明りが差し入る。砂漠の外れがかすかに青み、月の出は刻々近い。
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