離縁状を書くのは取り消しだ」
「はい。結構でございます」
「妹は、こっちでさがすからいいや」
「いろいろとお心当たりもございましょうからねえ」
「お高、これから、金剛寺坂へ帰るのか」
「はい。何ぞおことづけでもございますか」
「恨みがあるなら金でこいと、めくら野郎にそういってくれ。これから、若松屋と磯屋はかたき同士、ひとつ小判で張り合って、どっちが立つかへたばる[#「へたばる」に傍点]か、智恵くらべをしようと、な」
「はい。承知いたしました。若松屋様になりかわりまして、高からもそう申し上げようと思っておりましたところでございます」

      七

 お高が、小石川上水にそった金剛寺坂の若松屋惣七の屋敷へ帰って来たのは、夕方だった。ここらに多い屋敷々々の森が、藍《あい》をとかしたような暮色を流しはじめて、空いちめんに点を打ったように烏《からす》が群れていた。
 お高は、じぶんの立場と心もちがはっきりして、いつになくすがすがした気もちだった。足早に坂を登って行った。この辺は、下町から来ると、まるで山奥へでも踏みこんだようなしずかさだった。お高は、何となくこころ楽しく、その静寂を、しみじみと呼吸した。
 見慣れた若松屋の門が見えてくると、たまらないなつかしい気が、ぐんぐんと胸へこみ上げてきた。それは久しく遠国に旅をしていた人が、何年ぶりかにわが家へ帰って来て、出発のときと変わらない門口の模様を発見したときの、あの妙に白っぽい、不思議な昂奮《こうふん》に似ていた。お高は、大声をあげて泣きたかった。大声をあげて笑いたかった。両方だった。
 が、何となく面はゆくて、いつもの内玄関からははいれなかった。で、裏へまわった。ひっそりしていた。佐吉や国平も滝蔵も、そこらに姿を見せないのだ。御飯でもいただいているのかしら。お高は、そう思った。もしそうだったら、下男部屋の前を通るときに、そっと三人に、旦那様のごきげんをきいてから奥へ通ったほうがいいと思った。
 けさあんなことがあって、じぶんは磯五につれられて出て行ったのだから、どんなに気もちをわるくしていらっしゃるかもしれない。きっといつもの倍も三倍もむりをいって、わたしをいじめなさるに相違ないのだ――お高は、早くそういう惣七を見て、思いきりむりをいわれてみたい気がした。いじめられてみたいと思った。
 なみだが、お高の眼をくもらせて、足もとを見えなくした。お高は、台所へ上がるまえに、立ちどまって眼をふいた。
 わざといきおいよく上がって行った。
「滝蔵さん、佐吉さん、国平さん、ただいま帰りましたよ」
 どこからも返事がなかった。どうしたのだろう。三人ともどこへ行ったのだろうと思いながら、台所につづいた下男部屋の前を通りかかった。
 なかで、三人の話し声がしていた。話に気を取られて、お高の声も聞こえず、はいってきたのも知らなかったのだ。
 国平の声が聞こえた。
「いや、あのごようすは、ただごとじゃあねえ。お高さんがいねえからばかりだとは、おいらにあ思えねえのだ」
「そうよなあ。そういえば、朝から何一つお口へも入れずに、ひどくふさいでいなさるようだな」
「全く、あんな旦那をおいら幾年にも見たことがねえのだよ」
 お高は、はっと胸を突かれたような気がした。黙って、そこを通り過ぎると、駈けるように縁へかかった。長い縁だ。胸をさわがせて、いそいで歩いて行った。
 例の帳場になっている茶室の前へ出た。障子がしまっていた。中は、人のけはいもないように、しずかだった。お高は、思い切って声をかけた。
「旦那さま、ただいま帰りましてございます。高でございます」
 すると案外すぐ若松屋惣七の冷たい声がした。
「お高か。はいれよ。わたしは、手も足も出ないことになった。若松屋も、これで身代限りだ――」


    荒夜《こうや》


      一

「お高――どのか。わたしは、無一文になりました。は、は、は、見事に無一文になりました」
 笑うようにいった。が、若松屋惣七の顔は、灰いろなのだ。折れ釘のかたちをした筋が、こめかみにうき出ている。うつろに近い眼が、空《くう》の一点をみつめて、口じりが、ぴくぴくとふるえているのだ。急な心痛がもち上がって、ふかい悩みに沈んでいることがわかるのだ。
 お高は、磯五のことをはじめ、自分に関するすべてを、とっさに忘れた。どきん、と一つ、心臓が高い浪を打った。ぺたりとすわった。口がきけなかった。あのあの、と、ことばが舌にからんだ。
「いや、わたしとしたことが!」若松屋惣七は、お高の前に、一時、意気沮喪《いきそそう》した自分を見せようとしたことを、恥じているに相違ない。自制を加えて、急にふんわりとした口調だ。
「いや、わたしのことなど、どうでもよいのだ。が人間は、えて身勝手なものである。けさお前が、磯屋さんとつれ立って出て行ってから、わしはもう二度とお前を見ることはあるまいと思っておった。見とうもないと思っておった――のだが、しかし、そうして帰ってくると、わしも、ついよく帰ったといいたくなるよ。あはは」
 お高は、たたみに手をついて、いざり寄った。
「旦那様、若松屋が、あなたさまが身代限りをなすったというのは、それはいったいどういうことでございますか。お戯言《ざれごと》でございませんければ、どうぞわけを、お聞かせなすってくださりませ」
「ふん」若松屋惣七は、うそぶいているように見えた。
「だから、いまも申すとおり、人間は、えて身勝手なものである。お前のことは、忘れておったといってはすまんが、自分の用にかまけて、つい忘れておったぞ。どうだった! 磯屋さんと二度の念がかなって、お前もあのお店へ乗り込むことになったのではないのか」
 若松屋惣七は、磯五のこぶしを面上に受けながら、お高のために証文を破った、あのけさのいきさつを根に持っているのではない。あれは、ゆきがかり上、若松屋惣七としてはああ出ざるを得なかったのだ。いわば、磯屋とのあいだの戦端開始の合図のようなものだったのだ。しかし、もとはといえば、お高から出たことだ。
 が、いま若松屋のこころは、そのお高からも遠く離れてしまった。お高のみならず、磯五とのあいだにひそかに自分に誓った商道のあらそいすらも、すでに彼の興味を失いかけているのだ。そんな余裕も闘志も、なくなっているのだ。より以上に重大な、彼自身の死活に関する問題が、大きな手のように、若松屋惣七をわしづかみにしようとしている。いや、わしづかみにしているのである。
 お高は、それほどのこととは思わなかった。で、せっかく帰って来たのに、妙な皮肉をいわれると思うこころが、彼女をちょっとすねてみたくさせた。
「人間は身勝手なものであるとおっしゃいますのは、わたくしが帰ってまいりましたのが、いけなかったのでございましょうか。磯屋と二度の念がかなって、あの店へ乗りこむなどと、あんまりでございます。なんぼなんでも、高は、そんな恥知らずではございません」
 思わず強いことばが出たのに、じぶんでも驚いたお高が、ふと惣七の顔に眼をそそぐと、お高の声が聞こえなかったように、若松屋惣七は、きょとんとしている。
 やがていい出した。なかばひとり言だ。
「馬鹿だった」表情のない声だ。「わしが大馬鹿だった。誰を恨みようもない。おのが綯《な》った縄《なわ》で、縊《くび》れ死ぬようなものなのだ。お高どの、掛川宿《かけがわじゅく》の具足屋という宿屋のことを話したことがあったかな?」
「はい。伺いましてございます。脇本陣《わきほんじん》とやらで、たいそうお立派な御普請でございます。いつぞやも絵図面を見せていただきましてございます」
「そうであったかな。あの具足屋の一件なのだ。掛川までは、わたしも、ちと手を伸ばし過ぎたのでしょう。今ごろたたって参った」
「とおっしゃいますと、すこしも引き合わないのでございますか」
「いや、ひき合わぬことは、はじめからわかっておった。宿場の旅籠《はたご》などという稼業《しょうばい》は、俗にも三年宿屋と申してな、はじめてから三年のあいだは、おろした資本《もとで》がすこしもかえらぬのが、ほんとうだ。その三年のあいだに、ちっとでも利をみようというほうが、むりなのだ。だから、もうけのないことも、当分は金を食う一方であることも、驚かぬぞ」

      二

「が、その三年目も、来年である。来年になれば、具足屋もそろそろ上がりがあろうと思っておったにもうおそい。お高、そちは、東兵衛という名を聞いたことがあるか」
 お高は、つばをのんで、うなずいた。ぱっちりした眼が、若松屋惣七の額部《ひたい》を凝視していた。眉《まゆ》のあいだの刀痕《とうこん》をめざして、両方から迫りつつある若松屋惣七の眉毛が、だんだん危険なものに見えてきていた。
 暗くなりかけていた。お高は、灯がほしいと思ったが、惣七のはなしがつづいているので、お高は、灯を入れに起つひまがなかった。起つ気にも、なれなかった。夕風が渡って、障子紙の糊《のり》のはげた部分を、さやさやと鳴らした。風には、雨のにおいがしていた。じっさい、そのときも大粒なやつが、ぽつりと一つ縁側をたたいて、かわいた板に吸われていっていた。暴風雨《あらし》を予告するものがあった。
 お高は、東兵衛という男のことを、聞いたことがあるのだ。その東兵衛という男は、もと藤沢《ふじさわ》で相当の宿屋をしていたのが、すっかり失敗して困っていたのを若松屋惣七が、例の侠気《おとこぎ》から助け出して、東海道の掛川の宿に、具足屋という宏壮《こうそう》な旅籠をひらかせて、脇本陣の株まで買ってやった男である。
 もっとも、若松屋惣七が、ひとりで資金《もときん》の全部を持ったわけではない。半分出したのだ。あとの半金は、東兵衛がじぶんでかきあつめて、みずから具足屋を経営すべく、具足屋東兵衛となって、掛川の宿へ移り住んだのだ。
 具足屋は、もとの脇本陣の地所を買って、すっかり建て前をあたらしくしたものだ。木口をえらび、建て具や調度にも、若松屋惣七も東兵衛も、かなり贅沢をいった。ことに、庭を凝った。大きいことも大きいし、掛川の具足屋ほどの旅籠は、東海道すじの本陣脇本陣を通じてあんまりあるまいという、これは何も、若松屋惣七と東兵衛の自慢だけではなかったのだ。定評だったのだ。
 この、万事金に糸目《いとめ》をつけないやり方で、最初の利がかえるまで、三年もとうというのだから、骨だ。若松屋惣七も、許す限りの才覚をして、江戸から応援したのだが、むだだ。焼け石に水というやつだ。
 諸費《ものいり》はかさむいっぽうで、こうなると、第一、毎日のものを入れている商人たちが不安になってくる。黙っていない。大挙して、具足屋東兵衛に膝詰め談判をした。たった今払いをしてくれなければ、もうつけがけ[#「つけがけ」に傍点]で仕込みをしてもらうことは、ごめんだというのだ。
 現金がないのだから、ほかの商人を当たってみたところで、顔のききようがない。さっそく具足屋は、あすから休業である。というので、東兵衛からの急使が、江戸小石川の金剛寺坂へ飛んだ。見殺しにはできない。また、今までつぎこんだ金も、生かさなければならない。即刻、若松屋惣七は、工面に奔走した。あそんでいる小判というものはないのだから、これには惣七も、かなりひどい無理をした。
 その結果、若松屋惣七から相当の額《もの》を託された金飛脚が、掛川宿へ駈けつけたのだがそのときは、それやこれやを苦に病んで、つまり、どっちかといえば、気の小さな男だったのだろう。具足屋東兵衛は、気が狂《ふ》れていたというのだ。
「客商売に、座敷牢《ざしきろう》というのも面白うない。裏山の奥に、掘っ立て小屋を建ててな、見張り人をつけてあるそうだ」
「すると、何でございますか。旦那さまが、その掛川の借財をすっかりおしょいこみになったのでございますか」
「さよう。これは四月《よつき》ばかり前のことだが――」
「あら、ちっとも存じませんでおりましてございます」
「なに、よけいな心配をさせるにも当たらぬと思
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