って、お前には黙っておりました。べつに書状をしたためてもらわにゃならぬことではなし、使いの口上を聞いて、金さえ送ればよいことだったので、お前をわずらわせずにすんだのだ。どこかへ出て、お前は留守だった」
よけいな心配をさせたくなかったなどと、それはまるで女房にでもいうようなことばだと、いってしまってから気がついたらしく、若松屋惣七はじぶんでも意識しないこころの底のひらめきにちょっとおどろいた。あわてて、話の本筋にかえった。お高は、いつのまにか、うれしそうに惣七に寄り添っていた。
もう、ほんとに暗かった。暗いなかに、雨あしが光っていた。若松屋惣七もお高も、その、寒く吹きこんでくる雨に、気がつかないようすだ。国平であろう。縁側の端で、大いそぎに雨戸をくり出す音がしていた。
三
国平が雨戸をくり出す音に勝つために、惣七は、しぜん大声だ。
「こうなのだ。はじめ東兵衛が、わしと半分ずつ持って具足屋へおろした資本《もとで》だな、それだけは、わしのふところから出して、急場をしのがねはならぬことになったのだ」
「でも、それはお出しにならなければならなかったことはございますまい。義理固い旦那さまの御性分は、よく存じ上げておりますでございますが、そこまでなさらなくても――一言お話しくだされば、きっと高がおとめ申したにと、恨みがましく考えられますでございます。
その東兵衛さまとやらがお出しになった資金《もとで》は、申せば東兵衛さまが御自身でお擦《す》りになったものでございます。旦那さまは、御自身の分だけ御損をなすって、きれいにお手をお引きなすったほうが――」
「それが、そうは参らぬ。というわけは、東兵衛の女房子供が気の毒だし、また大口の借りがたくさん控えている。わたしは、東兵衛のおろした半分の資本《もとで》を、わたしの手で浮かび出させて、東兵衛の女房に返してやったのだ。つまり、それだけの現金《かね》で、借金《かり》だらけの具足屋を、わしひとりのものに買い取ったのだ。ありがたくない荷物は、ありがたくない荷物に相違ないが、あの場合やむを得んと思ったのだ」
お高は、くらい中で眼をかがやかせているに相違なかった。男に傾倒するこころが、熱い息となった。
「だれにでもできるものではございません」
若松屋惣七は、自嘲的《じちょうてき》に笑い出していた。
「なあに、それも、先へいって具足屋が芽を吹くことがあればと、見込みがあるつもりでしたことなのだ。慾《よく》と二人づれで、やったことなのだ。うふふ、侠気《おとこぎ》だの、義理だのという、そんな洒落《しゃら》くさいものではない、ははははは」
「で、その借財《かり》のほうは、どうなすったのでござります」
「いま具足屋を人手に渡したくない。しばらく立て直して、もちこたえてみたいと思ったから、すっかりわたしが払ったのだ。この弁金と、いま話した東兵衛の女房へやった、東兵衛の出した資本《もとで》の分と、この二くちの金に困ってな、金のことをまかせられているある後家さんから、話しあいで、一時の融通を受けたのだ。
それも、それだけのものをまとめて借りたのではない。その女から預かって、わしの眼きき一つで、あちこちに動かしてある金を、その女の許しを得て、一時わしの手にあつめて、具足屋のほうへまわさせてもらったのだ。一年後に、わしがほかへ小分けしておいたと同じ利分をつけて、耳をそろえて、その女に見せるという約束だった」
滝蔵が、おそくなったいいわけをしながら、灯のはいった行燈《あんどん》を持って来て、ほどよいところへおいて、さがって行った。お高は、下男がいるあいだ、惣七から離れていた。雨戸のそとは、はたして、叫ぶ風と狂う雨とのあらしだった。樹々《きぎ》のうなりが、ものすごく聞こえてきていた。
お高は、惣七の肩にじぶんの肩をあたえて、不釣り合いに大きく見える自分の膝の上で、惣七の指をもてあそんでいた。惣七は、それにまかせていた。考えていることのために、気がつかないふうだ。
「ずいぶんわたくしにお隠しなすっていろいろなことをしておいででございます。いつのまに、そんなことをなさるのやら――お出かけなすったことも、それらしい用事の人が、みえたようすもございませんのに」
お高は、不服そうだ。
「ははは、まだお前の知らんことは、ほかにいくらもあるのだ」
「まあ、憎らしい」
「下らぬことをいわずに、聞け」
「はい」
「そういう約束である。一年のうちには、具足屋も、何とかもうけをみるであろう。また、いくらかでも稼業《かぎょう》が立ちなおってきたら、根こそぎ手放してもよいのだ。こう思って、その後家さんの金の中から入要《いりよう》な分だけ借りておいたのだ。
先方にしてみれば、若松屋というものにまかせてある以上それをこっちが、どう細かく割ってうごかそうと、若松屋の仕事につぎ込もうと、その金がおなじ利を生むからには、何もいうべき筋はないはずだ。よって、貸した借りたとは申しても、普通《なみ》の借銭とは、おのずから理《ことわり》をべつにしておる」
「さようでございますとも」
「ところが、けさお前が出て行ってまもなく後家さんから使いが来てな、あしたにも、その金はもとより、わしの手から動いておる自分の金を、そっくりまとめて納めるようにとのことなのだ」
「あら、それでは約束が違うではございませんか、約束をたがえてそんなことがいえるものでございましょうか」
「それは、いえる。女分限者と金番頭の、いわば内輪のことなのだ。約束がちがうといって、公事《くじ》にも持ち出せぬ以上、いつどう気をかえられても、しかたがないではないか」
四
「さようなものでございましょうか」
お高は、若松屋惣七のためを思って躍起になっていた。
「それでも、もとはといえば、具足屋東兵衛さまとやらから、起こったことでございましょう。何も、旦那さまが、一身にお引きうけなさらずとも――」
「東兵衛は、狂人だ。狂人から、何が取れる」
「でも、それではあんまり――」
「のみならず、東兵衛は東兵衛としても、わしと後家さんのあいだの貸し借りは、貸し借りなのだ。亡夫に遺《のこ》された財産だ。金のたてぬき[#「たてぬき」に傍点]は何ひとつ知らぬのだ、知ろうとせぬ女なのだ。夕方、お前の戻ってくる一|刻《とき》まえにも、また二度目の使い者がせき立てに参ったような次第で、困る。まことに、困る。おおぎょうに申すのではない。若松屋も、これぎりではないかと思うのだ」
「何とか、待ってもらえないものでございましょうか」
「それが、一日半日をあらそっておると申すのだ。じつに、まゆ毛に火のつくようなはなしでな」
「何しにそんなに急に、お金がいることになったのでございましょう」
「さっぱりわからぬ」思案の皺《しわ》が、若松屋惣七のひたいを刻んだ。
「それが、さっぱりわからぬのだ。使いの者にきいてみたが、使いの者は、いわぬ。知らぬらしいのだ。わたしは、具足屋のいきさつを話して、猶予を頼みこんだ。が、いっかなききいれぬ。聞こうとさえせぬのだ。何でもよいから、金をそろえろというのだ。いそぎの用があるというのだ。
具足屋につくすべてを見積もりにして出すから、それだけ引いてくれとも申し入れたが、それも受けつけぬ。どこか具足屋の庭にでも、じぶんの小判が、山のごとく積んであるとでも、思っているらしいのだ。全く、そのとおりなら世話はいらぬがと、わたしも、つくづく思いますよ」
若松屋惣七は、ほろ苦く笑った。行燈の灯が、面のような顔を、いっそうグロテスクにくまどった。
「多額《たんと》でございましょうね、どうせ」
「一万二千両です」
「まあ、そんなに、でございますか」お高は、おろおろと声がふるえた。「どうしましょう――」
「みんな、具足屋という旅籠が食ったのだ」
「その具足屋を、そっくり売ることはできませんでございましょうか」
「まだだめだな。損つづきのことを知っているから、ちょっと手を出すものずきもあるまい。それに、持ってさえおれば、やがて、金脈に変わることはわかりきっているのだ。わたしも、放さずにすむことなら、放したくはないのだ」
「何とかならないものでございましょうか」
「一言も、こっちのいい分に耳をかそうとせぬのだから、しようがあるまい。金がいる。いまがいま、そっくり出せ。これだけのことを繰り返して、せきたてに毎日来おる」
「たいそうなお金持ちの方とおっしゃったようでございますが――」
「金持ちは金持ちです。ほかにも地所やら家蔵《やぐら》やら数多くあるのだが、それらはもちろん、わたしにあずけて利まわりを取ってきた金も、至急に用が出来《しゅったい》したから、是が非でも、耳をそろえて出せというのだ。なんとも妙なはなしである。裏に何かあるのかもしれぬ。何人かの呼吸《いき》がかかっているような気も、せぬことはないのだ。が、それとても、はっきりしたことはいえぬ」
「ほんとにそんな大金を、一時に何しようというのでございましょうねえ」
「おせい様は、きょうまでわしにいっさいをまかせてきたのだ。それが、今度のことに限って、なに一ついわぬ。若松屋惣七にも、見当が立たぬ。いくじがないようだが、かほど当惑したことはないぞ」
五
「あの、おせい様――」
お高は衝撃をうけた。おうむ返しに、その名が、口を出た。
「そうだ。おせい様という女だ。今まで名をいわなかったかな。はて、話したつもりであったが――うむ。知らぬも無理はない。お前が参ってから、書状の往復をしたことはなかったからな。いつも、つかいの者がまいって、口で話をきめるようなことになっておった。
そのうえ、本人のおせい様は、伊勢参宮《いせさんぐう》とかに出かけたきり、ながらく上方にとどまっておって、このころまで、わしのほうの用向きもなかったのだ。が、待てよ。お前いま、おせい様という名を聞いて、おどろいたようであったな」
「いいえ」
「知っているのではないか」
「いいえ」
「そうか、おせい様はな、駒形《こまがた》の猿屋町《さるやちょう》、陸尺《ろくしゃく》屋敷のとなりにあった、雑賀屋《さいがや》と申した小間物問屋の後家なのだ。いまは、 下谷同朋町《したやどうぼうちょう》の拝領|町屋《まちや》に、女だけの住まいをかまえておる。見ようによっては老《ふ》けても若くも見えるそうだが、まだ美しさの残っておる女だ。世間知らずの、子供のような人でな、あれに悪い虫がついたならば、いかな雑賀屋の大財産も、一たまりもないであろう。案外、そんなことかもしれぬぞ」
お高は、若松屋惣七のいうことを、聞いてはいなかった。考えがあたまを駈けめぐって、何をいわれても聞こえなかった。
お高には、すべてがわかった。なぜ名前が出るまで、気がつかなかったろう。磯五も、おせい様のことを話すとき、誰か凄腕《すごうで》の、そして正直|一轍《いってつ》の金がかりがついているといって、自分はすぐ、それは若松屋さまにきまっていると思ったほどではないか。
そうだ。雑賀屋のおせい様に、とうとうその悪い虫がついたのだ。そのわるい虫は、たとえ名だけでも、じぶんの良人となっている磯五であると思うと、お高は、恐怖のようなもののために、寒さを感じた。おせい様は、あの磯五に与えるために、旦那さまからそのお金を取り立てようとしているのだ。そのために、この旦那さまは、身も商道もほろぼされようとしている。おせい様が、人もあろうに磯五に、金をみつごうとしているばっかりにである。
お高は、けっして傍観するわけにはいかないと決心した。血走った眼が、若松屋惣七を見た。若松屋惣七は、行燈のほうへ首を傾けていた。風雨の音に、聞き入っているように見えた。
「あらしに、なりましたな」
「はい。ひどい吹き降りになりましてございます」
「もっともっと、ひどい吹き降りになろうもしれぬ」
「はい」
お高の顔は、不自然に、白くかわいていた。眼だけは、そこから夏の星ぞらでものぞいているように、これも不自然に、かがやいて見えてい
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