た。小さな口が、固い直線をつくっていた。どこにも、悲しい影も、苦しい影もなかった。女というより、美少年のようなお高に見えた。戦いぬこうというこころが、一時に彼女を、強く変えて見せていたのだ。
「なるようにしかならぬ。何とかなろう。どうもならぬときは」若松屋惣七は、眼をみはるようにして、お高のほうを向いた。
「なあ、そのときは、そのときではないか。それより、お前のほうは、どうした。それを聞こう」
「どうと申しまして、べつに、申しあげることはございません」
「うそをつけ。帰って来てくれと、磯屋にいわれて、いろいろ話があったことであろうが」
「はい。そういうはなしはございました」
「それを、どうきめたのだときいておるのだ。べつに強《た》って聞こうとはいわんが――」
 若松屋惣七は、ふところに入れていた手を胸元へまわして、がりがりかいた。顔をしかめて貧乏ゆるぎをはじめた。

      六

「どうと申して、またいっしょになるなんぞ、死んでもいやでございます」
「なぜだ」
「なぜでも、いやでございます」
「それで、帰って来たのか」
「はい」
「馬鹿め。磯屋におればよいに。おれのところは、あすにも食うに困ることになるぞ」
「はい。高は、ごいっしょに乞食《こじき》をさせていただこうと存じまして、帰ってまいりましてございます」
「ふん。そうか、それもよかろう」
 若松屋惣七は笑った。あくびをして立ち上がった。お高も、立ち上がった。二人は、いつものように前後につづいて、寝間のほうへあるいて行った。
 寝間から、若松屋惣七の声がしていた。
「磯五は、金があるのかな」
 お高の声が、答えた。
「さあ、どうでございますか」
「隠すな。借りに行くといいはせぬぞ」
「そんな、意地のわるいことばっかしおっしゃって──」
「磯五は、どうして金をつくったか。話したか」
「お金などないようでございますよ」
「金がなくて、磯屋という店が買えるか。金がなくて、これからどうしてやっていくのだ」
 お高は、黙った。おせい様に対する磯五の態度や気もちが、いっそうはっきりわかってきた。あの人が磯屋五兵衛となるまでに、何人のおせい様があったことだろう。そして、これからも、磯五の店をやっていくために、何人の、いや、何十人のおせい様があらわれることだろう。そして自分は、あの人の妻ということになっているのだ。
 いったいあの人のどこがそんなに女を惹《ひ》きつけるのであろう。お高は、磯五の顔を思い出そうとして、枕《まくら》の上で、眼をつぶった。そして、いった。
「あの人のことでございましたら、どうぞもうおっしゃらないでくださいまし」
 暴風雨は、つぎの日一日、江戸を去らなかった。若松屋惣七は、どこへ行くとも告げずに、あらしを冒《おか》して、駕籠で出て行った。出がけに、お高にいった。
「留守に来書があったら代わりに見ておいてくれ」
 金策に出かけるであるらしいことは、お高にも察しられた。お高は、居てもたってもいられない気もちでいながら、どうすることもできなかった。
 午《ひる》さがりになっても、何をするでもなく、座敷の縁側に近くすわって、寒い白い雨を、ぼんやりながめてくらした。そこへ使い屋が手紙を持って来た。お高は、機械的に文箱をひらいた。きょうに限らず、若松屋惣七が他行か昼寝でもしているあいだ、お高が、手紙を代読しておくのは、珍しいことではなかった。それは、女番頭といったような、お高の役目の一部でもあった。
 その手紙は、おせい様からきたものだった。古風な達筆で、こういう意味のことが書いてあった。
 当方の都合があって、非常にいそいでいるから、できるだけ早く金を届けてもらいたい。それも、じぶんのほうへ届けてもらうのではなくて、日本橋の式部小路に、磯屋五兵衛という呉服太物商がある。ご存じかもしらないが、知らなくても、きげはすぐわかる。そこへ届けてもらいたい。じぶんの手にきても、どうせその磯屋へ持っていくのだから、どうかはじめから磯屋の店へ届けてもらいたい。一刻もあらそう場合である。くれぐれもお願いする。
 というのが文面で、下谷同朋町拝領町屋、おせいよりとある。
 お高は、手紙を、繰り返して読んだ。思ったとおりである。おせい様は、若松屋惣七をこんなに苦しめて取り立てた金を、右から左に、磯屋五兵衛へつぎこもうとしているのだ。磯五は、これを眼あてに、お高という妻のある身でありながら、中年すぎたおせい様をくどいて、家《うち》に迎えると称して、夢中にさせているのだ。考えただけでけがらわしいと、お高は思った。
 お高は、手紙を、帯のあいだへはさんで、たち上がった。どうしても、若松屋惣七には、見せられないのだった。何とかして若松屋惣七に知らさずに、自分の手で防がなければならない。お高は、そう考えた。
 おせい様のところへ出かけて行って、磯五には自分という妻のあること、磯五の人物、その他すべてを打ちあけるに限ると、お高は、思った。惣七が帰らないうちにと、手早く身じたくをして、玄関の用人部屋のまえへ行って、いった。
「誰かお駕籠を呼んでもらいましょうよ」


    拝領町屋


      一

 お高は、下谷同朋町の拝領町屋にある、おせい様の家へ出かけて行った。それは、店屋にかこまれて、裕福らしい素人家《しもたや》が数軒かたまっている、そのなかのひとつだ。根岸《ねぎし》か向島《むこうじま》あたりにでもありそうな、寮ふうの構えで、うす陽《び》が塀《へい》ごしの松の影を、往来のぬかるみに落としていた。
 お高は、鳥居丹波守《とりいたんばのかみ》の上屋敷と上野《こうずけ》御家来衆のお長屋のあいだを抜けて、拝領町屋の横町へ出て、雑賀屋のおせい様ときくと、すぐにわかった。細い千本|格子《こうし》をあけると、十六、七の小婢《こおんな》が出てきた。お高は、じぶんの名をいっても、おせい様が知っているわけはないと思ったから、小石川金剛寺坂の若松屋惣七のもとから参りましたとだけいった。
 お高の通されたのは、町家によくある、せせこましい中庭に面した、小じんまりした座敷だ。庭のむこうが土蔵の壁になっているので、部屋のなかは、夕方のようにうす暗いのだ。が、贅沢なつくりであることは、つかってある木を一眼見てわかるのだ。床柱など見事なものだと、お高は思った。
 お高は、待たされているまに、座敷のなかを見まわして、さびしい気がしてきた。あのおせい様のこころといっしょに、この家も、調度もみんな、いまに磯五のものになるのだと思うと、そんな馬鹿々々しいことを、いよいよ黙って見ていられないと思った。
 磯五という人間、自分との関係、磯五とおせい様、とこうならべて考えると、お高には、じぶんの立場と、なすべきこととがよくわかるのだ。だが、お高は、いまおせい様のまえにすべてをぶちまけようとしている自分の動機に、嫉妬がひそんでいることには、自分では、気がつかなかった。
 お高は、若松屋惣七のためとはいえ、若松屋惣七に内証で、こうして勝手に出かけてきて悪いことをしたとは思わなかった。若松屋惣七が帰って来て、留守に手紙がきたと聞いて、その手紙がどこにもなく、お高もどこかへ出て行ったら、何と思うだろうかとも、考えなかった。お高の考えていることは、たった一つだ。
 何とかして、おせい様のこころを磯五から引き離して、おせい様が磯五にやるために、若松屋惣七からいそいで金を取り立てることを思いとまらせなければならない。若松屋の旦那様を、この急場からお助け申さなければならない。そのために、第一に、おせい様に、自分が磯五の妻であることをうち明けなければならない。おせい様のこころを、みじんに砕かなければならない――お高が、いろいろに考えて、決心をしているところへ、おせい様がはいって来た。
 おせい様は、お高を見て、おどろいたふうだった。
「おや、あなたさまは、磯屋のうら座敷でお眼にかかったお方でございますねえ。あなた様のことは、よく存じ上げておりますでございますよ。五兵衛さんが、あとで話しておりましたよ。あの人は、わたしには何でも話すのでございますよ、あの人のお従妹《いとこ》さんでいらっしゃいますって、ねえ。ほんとに、よくいらっしゃいましたよ」
 お高は、おせい様に、無心に先手を打たれたような気がして、挨拶に困った。おじぎをして、それから、おせい様のようすを見た。
 おせい様は、若いころは、珍しく美しい人であったに相違ないと、お高は思った。いまでも、おせい様の表情は、夏の夕ぐれのようににおやかなのだ。びいどろ[#「びいどろ」に傍点]のように、無邪気に、感情がすいて見えるのだ。
 お高は、玉のようなものが上がって来て、咽喉《のど》が詰まるような気がした。こんな人を、こんなにだますなどと、磯五という人は、何という罪つくりであろうと思った。おせい様も、おせい様だ、磯五の肚黒《はらぐろ》にはすこしも気がつかずに、すっかりまるめられて、近いうちに、磯屋へ迎えられて行く気でいるのだ。お高は、かなしくなった。決心はしたものの、こうして面と向かうと何といって切り出したらいいか、わからなかった。
 従妹だと磯五がいったと、おせい様に聞かされても、お高は、すぐそれを打ち消すことができなかった。黙っていた。
 おせい様は、いつものとおり、にこにこしていた。おせい様のまわりには、しばし春の風が吹いている感じがするのだ。いまその春の風がお高のほうへも吹いてきて、お高は、この人に、そんな残酷なことなど、とてもいえそうもないという気がしていた。
 おせい様は、お高は遊びに来たのだとでも思っているらしく、よもやまの世間ばなしをはじめた。屈託のない、ほがらかな声だ。お高は、床の間にかかっている、小さな、古い軸を見ていた。それは、わらびの絵で、上に、読みにくい字で、賛が書いてあった。野火の煙や横に、とあとはよく読めなかった。
 お高は、それを読もうとして、床の間のほうをのぞくようにした。おせい様も、何か話しかけていたことばを切って、そっちをふり返った。それがお高に、さがしていた機会《きっかけ》をあたえた。お高は、いい出していた。
「あの、さっきの小さな女中さんは、わたくしが何のことで参りましたか、あなた様へ取り次ぎましたでございましょうか」

      二

「はい。それがね、ほんとに馬鹿な婢《こ》で、どなたかほかの人と間違えて、若松屋惣七さんから若いおなご衆がお使いにみえたと申しましたよ。若松屋惣七さんと申すのは、わたくしがお金の扱いをまかせてきたお人で、このごろ、ちょっと頼んでやってあることがあるのでございますよ。
 じつは、そのことが片づかないで、困っておりますので、きっとその話を聞いていて、それであの婢は、そんなとり違えたお取り次ぎをしたのでございましょうよ」
「いいえ。わたくしはほんとに、若松屋惣七から参ったのでございます。ちょっと内々《ないない》で、お耳に入れておきたいことがございまして――わたくしは、若松屋惣七の女番頭でございます」
「あら、あなた様が、あの磯屋さんのお従妹さんが、若松屋の女番頭――それは、まあ、わたしも、はじめて伺いましたよ」
「まだ今のうちに申し上げれば、おそくはございますまいと存じまして」
「何のことでございますか。若松屋さんに、何かお金のまちがいでもあるのでございますか。あのお人は、正直なお人とばかり思っておりましたに」
「はい。若松屋さまは、正直なお人でございます。若松屋さまに限って、お金のまちがいなどは、決してございませぬ。お話と申すのは、ほかのことでございます。どうぞ、びっくりなさりませんように」
「まあ、気味のわるい。早うお話しなされてくださりませ」
「若松屋さまは、わたくしが、きょうこちら様へお伺いしたことは、ご存じないのでございます。どうしてもお話し申し上げたいことがございますので、わたくしひとりの考えで、お邪魔に上がったのでございます」
「それはいったい、何のことでございますか」
「いまおっしゃった、若松屋さまから取り立てよ
前へ 次へ
全56ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング