らないでもようございます。何もいいはしません。こちらの親類の女《もの》だと申し上げました」
「おせい様何かいったか。あの人は、あたまの調子が変なときがあるのだ。ときどきつまらねえことをいいだすんでね、知らねえ人あびっくりすらあな」
「いいえ。何もおっしゃりませんでした」
「おせい様は商売のことでしょっちゅう見えるのだ。この磯屋の店へも、すこしばかり金を出してもらったことがあるのだが、そのために、自分の店みてえな顔をされるのには往生するよ。雑賀屋《さいがや》てえ小間物問屋があったのを知ってるだろう?」
「はい。駒形《こまがた》のほうでございましょう。何でも、小間物のほうでは老舗《しにせ》だとか――」
「今はねえのだ。先代が死ぬと、子がねえので、これから養子をして気苦労をするがものもないといってな、おせい様が店を畳んでしまったのだ。だから、早くから山ほどの財産を後生大事に、若後家を通してきたのだ。今じゃあもう若後家でもねえが――」
その山ほどの財産が目あてなのでございましょうとお高はいいたかったが、そうはいわなかった。
「あの人が雑賀屋のねえ」
「うむ。おせい様は雑賀屋の後家さんなのだ。その財産も、おおかたあちこちの資本《もとで》にまわしてあるのだよ。何でも、誰か人が立って、おせい様になりかわってそのほうのめんどうを見てるてえ話だ。おせい様にまかせられて、その男がおせい様の金を動かしているということだ。だいぶおせい様のために利をあげるてえことだから、かなり腕のすごい野郎に相違ねえのだ」
「そうでございますかねえ。その人は、腕もすごうございましょうが、ずいぶんと正直なお人でございますねえ」
「正直といえば正直だろうよ。あの、よろずにぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]としているおせい様の金を、長年預かって間違えのねえばかりか、いい利を生ましちゃあきちんきちん[#「きちんきちん」に傍点]とおせい様へ知らせるというのだからな。小判を上手に使えば、小判が小判を生むのだ。その男は、しっかりそこらのこつ[#「こつ」に傍点]を呑みこんでいて、おせい様に、遊びながらもうけさせてきたのだ。
その男の扱い巧者で、先代の遺《のこ》した雑賀屋の財産は、おせい様がふところ手をしているうちに、今じゃあもう、倍にはなっているだろうとのことだ。それも、きわだってどうしたというのでもねえ。そこここの小商人《こあきんど》に貸しつけて、うまく金の糸を引いただけだそうだから、まあこれは人のうわさだが江戸は広いや。えらいやつがいやあがる」
めったに人をほめない磯五が、しきりと感心するのを聞きながら、お高は、それはきっとあの若松屋惣七さまであろう。若松屋様にきまっていると思った。それほど小判にかけての腕ききが、若松屋さまのほかにいようとは思えないからだ。お高は、自分がほめられているようでうれしかった。
五
ふたりは奥の居間のほうへ近づいていた。そこにはうわさのおせい様が待っているので、磯五は、そこから上がらずに、そっとお高を招いて、前の中庭を突っ切って行った。
つき当たりにお稲荷《いなり》さんがまつってあった。そこらは、あまり手入れのしてない薮《やぶ》になっていて、ひからびたお供物《くもつ》などののった皿《さら》が、土といっしょにころがっていた。お高は、もったいないと思って、そっと拾い上げてお稲荷さんの前へ持って行って置いた。
ふたりは、がさごそ音がするのに気を兼ねながら、その薮を分けて、お稲荷さんの裏へ出た。そこも磯屋の庭つづきではあったが、すぐ勝手や風呂場《ふろば》に近くて、婢《おんな》や下男が多勢立ち働いているのが、あけ放した水口の腰高障子《こしだか》のなかに見えていた。薪《たきぎ》を割る音や茶碗《ちゃわん》を洗う音もしていた。
お高は、何のために磯五についてそんな物蔭《ものかげ》まで来てしまったのか、自分でもわからない気がしたが、そこなら、ちょっとした木立ちにさえぎられて、勝手口からも店のほうからも見えないし、すこしぐらい大きな声をしても、居間にいるおせい様に聞こえそうもないので、安心して、磯五が何かいい出すのを待っていた。
きっとさっきの自分にこの店へ来ていっしょに暮らしてくれという話のつづきであろうと思った。あんな女との立ち話まで自分に見られながら、またあのおせい様がすっかりしゃべったことも知らずに、何てこの人はずうずうしいのだろうと、お高はあきれて、すこしおかしくなってきた。早く切り上げて金剛寺坂へ帰りましょう。お眼の不自由な惣七さまは、わたしがいないで、誰のお給仕でお昼飯《ひる》を召し上がったろう?――佐吉かしら、国平かしら、それとも滝蔵――。
「なあ、お高、おれは真剣に相談しているんだが、お前《めえ》だって、あんなところであんなことをせずとも、おれのところへ帰って来さえすれあ、ここは呉服屋だ。着てえ物は何でも着れるし――ほんとに、お世辞じゃあないが、お前《めえ》はこのごろずんと女っぷりが上がりましたぜ。あのめくら野郎がほれこむのもむりはねえのだ。もっとも、めくら野郎にはお前《めえ》の美しさがよく見えねえかもしれねえが――。
一度はおれも、なに、決して捨てたわけじゃあないが、ちょっとおめえを置きざりにしたことがある。それは許してくれよ。な、このとおり、掌《て》を合わしてあやまっているのだ。ははははは、いや一度別れた女だけに、他人《ひと》のものになりかけているのを見ると、いっそうほしくなってきたのかもしれねえ。うむ、それが本当のこころかもしれねえ。これからはおれも、まじめにかせいで埋めあわせをするつもりだ。おめえに楽をさせるつもりだ。だからよお高――」
なめらかにほほえみながら、つと手を取ろうとしたので、お高はぎょっとして手を引っこめた。
「いやですよ。もうそんなこと聞きたくもありませんよ。それより、おせい様ははじめわたしをお前さまの妹だと思って、そう御挨拶をなさいましたよ。お前さまには、妹さんがおありでございますか」
「うむ。妹のことをいやがったか。なに、妹なんかあるもんか。そんなもの、おめえの知ってるとおり、ありゃあしねえ」
「わたしはまた、別れてからあとになって、ひとり妹さんができたのかと思いましたよ、ほほほ」
「ふざけねえでくれ。実あこうなんだ。おせい様の手前、おれにあひとり妹があることになっているんだ。その妹が店の仕入れなど引き受けてやっている。おれはいわば後見をしているようなものだ――と、こうまあ吹っこんであるんだが、そういうことにしねえと、おれは根っからの呉服屋でねえことをおせい様は知っているから、男のおれが女の物を見立てるんじゃあ、おせい様があぶながって、ちいっとこっちに都合のわるいことがあるのだよ」
「お金の融通にさしつかえができるというのでございましょう、問屋の払いや何か――」
「察しがいいや。さすがめくら[#「めくら」に傍点]野郎に仕込まれただけあるぜ。いよいよ店へ来て、その腕をひとつ、磯五の帳場でふるってもらいてえもんだなあ」
「まっぴらでございますよ。わたしはお前さまとくらすくらいなら、死んだほうがましでございますよ」
「そりゃあお前、あんまりな御挨拶だぜ」
「あんまりでも何でも、これが真心《ほんしん》でございますよ。きょうあの二百五十両の借りというひょん[#「ひょん」に傍点]なことから、三年ぶりにお前さまにお眼にかかって、お前さまはあの借りを帳消しにしてくださいましたし、わたしはお前さまが持って出た二千両を今あらためてさしあげましょうと申しているのでございますから、もう両方に何のいいぶんもないはずでございます。
でございますから、どうかこのうえは、わたしに去り状をくださりませ。そのうえで、はっきり申し上げたいことがあるのでございます」
お高は、いつのまにか真っ蒼な顔になっていた。
六
「なに、三下り半をよこせってえのか」
「はい。さようでございます」
「読めた。そいつを取ったら、大いばりで、あの若松屋へ乗りこんで、めくら野郎といっしょになろうてんだろう」
「いいえ、そのまえに、お前さんから離縁状を取ったなら、お前さんにしてあげることがあるのでございます」
「おれにすること? 何をしようというのだ」
「離縁状さえ渡していただけば、もう妻でも良人でもないのでございますよ」
「それはそうだ。そのための離縁状だからな。で、妻でも良人でもなくなったら、おめえはおれに何をしようというのだ」
「お前さまが若松屋さまをおぶちになった数だけぶち返してあげるのでございます」
「ふうむ、てめえ、いよいよあの若松屋にまいっているな」
「そんなことはよけいなことでございますよ。どうでもよろしゅうございますよ」
「うんにゃ。よかあねえ」
「さあ早く去り状をお書きになってくださいませよ」
「書かねえ」
「え? お書きになってくださらないのでございますか」
「書かねえ、決して書かねえ。意地になっても書かねえからそう思え」
「意地になっても書いてくださらないとは、ずいぶんまたわけのわからないお話でございますねえ」
「わけがわかってもわからなくっても書かねえといったら書かねえのだ」
「それはいったいどういうお心からでございます。若松屋さまをおぶちになった数だけ、このわたしにぶたれるのが、そんなにこわいのでございますか」
「てめえを若松屋へくれてやるのがいやなのだ。といったところで、今までだって他人じゃああるめえが――」
「若松屋さんとわたしは、今までのことは今までのこととして、お前さまがわたしに去り状を一札書いてくだすって、若松屋さんをおぶちになった数だけわたしがお前さまをぶち返せば、わたしは決して金剛寺坂へ帰りは致しませぬ」
「どうするのだ。うふっ、尼にでもなるというつもりだろうが、その手に乗るおれじゃあねえんだ。離縁状を握って、お前《めえ》が若松屋へ飛び込んでいくのは、おれには眼に見えているんだ」
「では、どうあっても、去り状はお書き下さらないとおっしゃるのでござりますか」
「いや、書く。書こう」
「え! お書きくださいますか」
「うむ。書こう。離縁状を書いてやろう」
「それでは、あの、ほんとに書いてくださいますのでございますか」
「いかにも書こう」
「そうでございますか。ではすぐ――」
「待て!」
「ほら、いま書いてやろうとおっしゃったのは嘘でございましょう」
「いや、書く。望みどおりに縁切り状を書いてやる。そのうえで、おれが若松屋をなぐった数だけ、お前になぐられもしょう」
「それはほんとでございますか」
「うそはいわねえ。が、そのかわり、こっちにも一ついいぶんがあるのだ」
「はい。そのいいぶんと申しますのは?」
「おれがおめえのいうなりにするように、おめえにも、おれのいうとおりになってもらいてえのだ」
「それは、何でございますか」
「おれの妹になってもらいてえのだ」
「妹さんに?」
「そうだ。無代《ただ》でとはいわねえ。大枚の給金をやろう。妹料だ。どうでえ」
「そして、その妹さんに化けて、わたしは何をするのでございますか」
「何もするこたありゃあしねえ。ただおれの妹だといってすわっていりゃあいいんだ」
「そして、お前さまがおせい様から、お金をまき上げる種に使われるのでございましょう。おおいやだ! わたしにはそんな大それたことはできませんでございますよ。お断わり致しますよ。それに、さっきおせい様にお眼にかかりましたとき、わたしはお前さまの妹ではないと、はっきり申し上げたのでございますからねえ。そんなに、妹でなかったり、妹であったり――誰でもおかしく思いますよ。いやでございますよ」
「なあに、おせい様には、たとえ何といったところでおれの口一つで、あとからどうでもなるのだが、すりゃてめえは、どうあっても妹に化けるのはいやだというんだな」
「まあ、せっかくでございますが、お断わり致しますでございますよ」
「金になる口だぜ、おい」
「お金なんかほしかございませんよ」
「よし。そんなら、こっちもせっかくだが
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