んでいるが、わたしも進んでいる。ふたりは恋仲でございますといわんばかりに、おせい様は、あけすけに何でも話すのだ。

      二

 お高は、何にもいえなかった。弱々しいおせい様が、あまりにうれしそうに輝いてみえるのだ。そういうおせい様は、まるで十七、八の花嫁さまのように美しいのだ。お高は不思議なものに憑《つ》かれたような気がして、このおせい様の前に、自分がすでに磯五の妻であるとはどうしてもいえなかった。
 男が家出してから今まで三年のあいだ別居してきはしたものの、そしていくら音信不通だったとしても、磯五自身が若松屋惣七にいったように、去り状というものをもらっていない以上、じぶんはやっぱり磯五の女房であることに変わりはない。現に磯五も、それをいい立てて自分を金剛寺坂からここへつれて来て、たったいま、もとどおりになってくれと頼んでいる最中に、ちょっと中座したばかりではないか。
 それなのに、この女《ひと》は、どこからか、ひょっこり現われて、夫婦約束をかわしたとか何とか、もうあの人を良人扱いにしている――お高は、夢をみているような心持ちがして、これは何かのまちがいであろう。今にもあの人が帰って来ればわかることだと思いつづけた。
 お高にはわからないのだ。が、これが若松屋惣七なら、おせい様を一瞥《ひとめ》見ただけで、すべてがわかるはずだ。磯五としては、やりそうなことなのだ。
 すこし苦味の加わったくどき上手《じょうず》の色男が、この茶道あがりの磯屋五兵衛である。女盛りに良人に先立たれて、子供もなく、小判の番人をしているだけで、こころのやり場がなかったのがおせい様だ。ことに、この年までほんとに愛したことも、愛されたこともないおせい様だ。磯五に会ってはじめて、男を想うことを知ったといってもいいのであろう。
 この人のいいおせい様を、女たらしの磯五が巧みにくどいて、夫婦約束までして、色仕掛けで金を絞ろうとしているこんたんや、その脂《あぶら》っこいくどきの場面が、まるで浄瑠璃《じょうるり》にかけるように、眼に見えるような気がするのだ。
 もちろん磯五は、恋というものを餌《え》に、おせい様のまごころをあやつって、金を吐き出させようとしているだけのことなのだ。中年女の激しい恋だ。金が眼当ての磯五の色細工などには気がつかずに、おせい様は、一すじに磯五を思って、要求するものは何でも与えようとあせっているのである。
 おせい様が大家《たいけ》の人であることは、身なりを見てもわかる。よくある質《たち》のわるいやり方で、この磯五の店を買いとった金も、おおかたおせい様から出ているのであろう。磯五が女殺しであることは、顔や風体や弁舌だけでもわかるが、彼はこうして、女の生き血を吸って生きているのだ。世間知らずの単純なおせい様のこころは、もうすっかり磯五にしてやられて、ほんとにいっしょになる気でいる。いっしょになって、自分の財産の全部を、男の愛のために、よろこんでほうり出す気である。
 今のおせい様には、何とかして磯五をよろこばせるほか、何の目的もないのだということが、世の中のうらおもてを見てきている若松屋惣七には、たとえ眼は不自由でも、磯五という人物の解釈から、瞬間にして看破することができたであろうが、お高は女で、年も若いし、それになんばなんでも磯五がそんな悪辣《あくらつ》なことをしようとは思わない。
 自分をすてて逃げたのだし、自分もいまもとの関係へかえろうとは思っていないが、それにしたところで、ほかに夫婦約束ができるわけのものではない。そう思った。うつむいて、黙っていた。
 話し相手を見つけたうれしまぎれが、おせい様をひとりでしゃべらせていた。
「去年わたしがお伊勢さまへお詣《まい》りしましてね、大阪へ遊びに寄って、あの人に会ったのでございます。あの人は堺で大わずらいをして、そのときわたしが看病をしました。おや、あの人はどこへ行ったのでございましょう。此室《ここ》にいると小僧さんがしらせてくれましたので、おどろかしてあげようと思ってこっそり来たのでございますがねえ」
「ほんとにねえ。今までここに話しておりましたのでございますが、どうしたのでございましょう。ちょっとわたくしが見て参りましょう」
 お高は、ゆらりと起ち上がった。

      三

 お高は、ここでおせい様と話しているところへ、磯五に帰って来られてはたまらないような気がした。どうしたらいいかわからないと思った。おせい様は磯五という人間を、神様や仏さまのように考えているらしい。そのおせい様のまえに、ぎっくりしてまごまごしている磯五を見せることは、おせい様にすまないとお高は思った。
 縁へ出ると自分のはきものがあった。それを突っかけてはいって来た横丁づたいにおもての往来へ出た。
「まあまあ、そのうち見えますでございましょうよ。わざわざあなた様に呼びにいらしっていただかなくてもよろしいんでございますよ」
 うしろで、少女《こども》のように邪気のない、おせい様のほがらかな声がしていた。ああいう人をだますなんて、空恐ろしいとは思わないかしらとお高は思った。
 お高は一度往来へ出て、そこからそれとなく店をのぞいてみるつもりだった。何だか、わるいことをしているようで、ためらいながら、式部小路の通りまで出た。白く乾いた地面に日光が揺れていた。かた、かた、かたと金具を鳴らして錠剤屋《じょうさいや》が通り過ぎた。色の黒い錠剤屋が汗ばんだ額を光らせて、ちらとお高を見て通った。すぐあとから、尾を巻いた犬が、土をかいでいった。
 日本橋の通りに、大八車がつづいていた。近所に稽古屋《けいこや》があるに相違なかった。女の児《こ》の黄いろい声とお師匠さんの枯れた声とが、もつれ合って聞こえてきていた。お高は、そっと店の前へまわろうとした。
 磯屋の前は、ちょっとした空地《あきち》になっていた。小松が二、三本はえていた。これから普請《ふしん》にでも取りかかろうとしているのだろう。まばらな板囲いがまわしてあって、材木などが置いてある。
 その囲いのなかの、磯屋の店からはちょうど仮塀のかげになって見えないところに、ちょっと人が動くのが見えた。お高のところからは、横からすかして見るようなぐあいになるので、板がこいの隙間《すきま》から見えたのである。お高は、人のいない空地に何かのうごきが眼にはいったので、そのまま磯屋の天水桶のかげにたちどまってそっちのほうを見た。
 磯五が、誰か若い女と話しこんでいた。向こうからは磯屋の陽影になっていて見えないのだが、こっちからは、板と板の合わさっている角度によって、よく見えるのだ。磯五と女は、見ている者がないと安心して、抱き合わんばかりにからだを寄せて、何か熱心に話し合っては、声を殺して笑っているのである。
 女は、芸者にしてはけばけばしい姿《なり》をしているが、どこか素人《しろうと》らしくないところの見えるのは、女|歌舞伎《かぶき》の太夫《たゆう》ででもあろうかとお高は思った。黒い豊かな髪をきれいに取り上げた、すんなりと背の高い女だ。笑うたびに肩から腰を大ぎょうに波うたせて、色好みの男の玩弄《おもちゃ》にまかせてきたらしい、しなやかな胴である。
 いやみったらしい女だと思うと、お高は、自分がひとのことを隙見しているのに気がついて、はっと気がとがめた。いやしいことだと思って、顔が赧くなった。が、いま動けば磯五に見つかると思って、足が釘《くぎ》づけになったようで動けなかった。かえって、どうにかして女の顔を見てやろうと思って、いろいろに角度を計って首をうごかしていた。
 女は、一生懸命に磯五のいうことを聞いているふうだった。するとうつむいてはきものの爪先《つまさき》で小石をもてあそびながら女が向きを変えた。顔が、お高に見えてきた。お高は、その女があまりに美しいので、急に何か光るものを見たように、眼さきがきらきらとした。それほど色の白い、ほっそりした美人であった。
 しかし、眼鼻だちがくっきりあざやかで、大きな眼が、何かしきりにうなずきながら、ほれぼれと磯五をみつめていた。顎《あご》を襟へうずめて、上眼づかいに男を見あげているのだ。そのようすは、女のお高にも悩ましくうつって、いっぽうには、これはいよいよただ者ではないと思わせた。そして、この女も磯五に想いを寄せていて、磯五のためには何でもしようとしているのであることが、磯五を見る女の眼つきから、お高はすぐに読みとることができた。
 お高は反射的に、奥の居間に待っているおせい様のことを思った。また、おせい様のことばかりではなく、さっきより[#「より」に傍点]を戻してくれと磯五にくどかれたときに、あやうくそれに傾きかけたじぶんの心をも思い返していた。お高は、それを思って、ぞっと寒けのようなものに襲われた。同時に、どうしてあの磯五という人には、女という女が心を傾けるのであろうかと不思議に思った。
 その、女をひきよせる磯五の力が何であるのか、わかっているようで、お高にもよくわかっていなかった。それは、お高も、一方では唾棄《だき》しながら、他方では理窟《りくつ》なしに、多分にひかれているひとりであるために相違ない。しかし、このときは、自分のほんとの場処は、あの、小石川の森の奥の、金剛寺坂の若松屋惣七さまのおそばなのだ。そのほかにはないのだと、お高はつくづく思った。そう思うと、あぶないところを救われたような気がした。
 と、磯五からはもう千里も万里も遠のいたようなこころになって、あとのほうは、女をも磯五をも、お高は平気で見ていることができた。ただあのおせい様のことだけが、自分の責任か何ぞのように、たまらなく気の毒に思われてきた。
 磯五は、女のむっちりした肩に手をまわして、何ごとか耳へいっていた。それが、お高のところからは、女の耳をなめているように見えた。あの人はよく自分にもああしたことがあるとお高は思った。そう思っても、もうべつにいやな気もしなかった。何だか芝居を見ているようで、のぞき見しているのが面白くなってきた。
 女は、白い歯を見せて、もたれかかるように笑っていた。合点々々をしていた。ふたりのからだが、別れた。女は不服そうにちょっとからだをよじっていたが、やがて、磯五が叱《しか》るように何かいうと、やっと別れることを承知したとみえて、白い顔を振り向かせながら、空地の裏の板塀のこわれを抜けて、むこうの横町へ通ずる小路を、いそぎ足に立ち去っていくのが見えた。
 磯五は、離れていく女を見返りもしなかった。ちょっとあたりをうかがって、人通りがないと見ると、するりと小松の下の囲いをくぐって往来へ出て来た。磯五の店でも、誰も気がつかなかった。この以前、二人が別れそうなようすを見せだしたときから、お高は、見つからないように天水桶に身をかばって、そっと磯屋の横の路地へ引っ返していた。
 だいぶ引っかえしたとき、うしろに磯五の跫音《あしおと》がした。いつものやさしい声だ。
「お高じゃないか。何しにこんなところに出ているのだ」

      四

「お前さまをさがしに出たのでございます。後家さまふうのお客さまがお見えになりましたから」
「うむ。おせい様だろう。ちょっと知り人なのだ。気のいい面白い女《ひと》だよ。大事なおとくいでもあるし、いろいろとまた力になってもくださるのだ。御挨拶したか」
 案のじょう、そらとぼけていった。お高も、そのまま黙って並んで歩いて、おせい様から聞いたことも、いま空地《あきち》で女役者らしい女《ひと》と会っていたのを見たことも、いわなかった。いわないほうがいいし、いう必要もないと思った。
 狭い横町なので、並んで歩くと、磯五のからだに触れるのだ。いやな気がした。で、立ちどまって磯五を先へやって、二、三歩遅れて行った。磯五が、ちょっと気がかりなように、ふりかえってきいた。
「問屋の用というのが手間取ってな、届いた荷を見におもての土間まで行っていたのだ。だから、こっちをまわって来た。お前、おせい様に、何といって御挨拶をした」
「御心配なさ
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