あんまりでございます。あんまりむごうございます」
「むごい? このわしがむごいというのか」
「さようでございます。むごうございます。あんまりでございます。あんまりななされ方でございます。おうらみでございます」
「ふうむ、そのわけを聞こう」
「はい。磯五がなくなりまして、わたくしは、もう晴れてどうともできる身の上でございます。それなのに旦那様は、まるで他人のような口をおききあそばして――でございますけれど、わたくしは、何を申し上げているのでございましょう! じぶんながら、気でも違ったのではございましょうか。どうぞ、お聞き捨てくださいまし」
「そのことか。そのことなら、はっきり申す。断わる」
「おうちへお入れくださらないとおっしゃるのでございますか」
「そうじゃ。どうにもならん」
「わたくしが継ぎました母のお金のことでございますか」
「若松屋も、金持ちの若後家といっしょになったとは、いわれとうない」
「まあ、お金もちの若後家とおっしゃるのは、それはわたくしのことでございますか」
「さよう。まずそこらであろうな」
「お金持ちの若後家――おことばではございますが、あまりな面当てのようではございますまいか」
「面あてであっても、つら当てでなくても、それがほんとのところだ」
「――」
「金のある女など、きらいだ。いかにいわれても、どうにもならん。その、どうにもならんことに相方《そうほう》いろいろとことばをつくすのは、愚じゃ。よそう」
「でも、お金などございましても、ございませんでも――」
「同じだといいたいのだろうが、おれの気もちが違うな。お前に金がきてから、お前は遠いところへ行ってしもうた。わしの手の届かん遠いところへ行ってしもうた」
「わたくしはちっともそういうつもりはございません。そんなところがすこしでも見えようとは、じぶんでは思いませんでございます。やはり旦那様は、お気がお変わりなすったのでございます。そういうことをおっしゃって、それをいいことに、わたくしをおしりぞけなさろうというのでございます。高には、よくわかっておりますでございます」
「なに! 黙れっ!」
四
何、黙れと若松屋惣七がすこし大きな声を出したとき、縁の障子のかげにちらと人かげがしていたが、若松屋惣七もお高も気がつかないで話をつづけた。縁の障子のかげにたたずんでいる人物は、龍造寺主計であった。
龍造寺主計は、別に立ち聞きするつもりで来たのではないが、そこまで来て、室内《なか》に若松屋惣七とお高の話し声がするので、立ちどまって、はいろうか引っ返そうかとためらっているうちに、自然話が聞こえて立ち聞きすることになった。彼は、そんなことをしている自分がいとわしくなって、何度も、咳《せき》払いでもして姿を出そうか、それとも爪立《つまだ》ちして庭のむこうへ帰ろうかと思っても、足が動かなかった。からだがきかなかった。
で、そうやって聞いていて、彼は初めて、お高と若松屋惣七の関係と、若松屋惣七に対するお高の気もちを知ったのだ。龍造寺主計は、それを知っても、失望も怒りも感じないのだ。そういうよけいな感情は、長いあいだの放浪で、彼はすり切らしていて持ち合わせがないのだ。
ただ龍造寺主計は、すべてがはじめてわかったような気がした。じぶんが掛川へ行く前にお高に嫁に来てくれるようにといったことがあるが、あのときお高が困ったようなようすを見せて、断わりにくそうに断わったわけも、読めた。
龍造寺主計は、あれ以来掛川で奮闘して、お高を迎える日をたのしみにしていたのだし、今度出て来たのも、実のところはお高を見るために過ぎなかったのだが、若松屋惣七とお高の仲と、ことに惣七に寄せるお高のこころもちを知ると、龍造寺主計は、じぶんの気もちなどはすぐ忘れて、晴ればれすると同時に、お高への同情が、そのがっしりした胸に雲の峰のように沸き起こってきた。
それは、龍造寺主計において、自然すぎるほど自然な転化だった。そのお高に対する同情は、いま、お高の財産ゆえにお高の恋を退けようとしている惣七への憎しみでもあった。
この二つは、龍造寺主計にとって、同じ感情であった。そして、龍造寺主計のあたまの中で、同じ度合いと速力で進んだ。お高が可哀そうになればなるほど、若松屋惣七が憎らしくなった。
龍造寺主計は、この、自分でも不思議な義憤に悩んで、隠れていることを忘れて、障子のかげでしめった。それはさいわい室内の二人には聞こえなかったが、龍造寺主計は、あやうく声に出していうところだった。
「意地もよいが、わからんことをいわるる惣七どのじゃな」
部屋のはなし声はつづいていた。龍造寺主計は、板縁に釘《くぎ》づけになったように、脊骨をまっすぐにして聞き入っていた。
いっているのは、若松屋惣七の声だ。
「しきりにむごいというが、何もむごいことはあるまい。お前にも、わしの気もちはわかっておるはずだ。おれは、戦っているのだ。お前を求める心と、おれは戦っているのだ。金と若さと美しさがあって何でもできるお前が、このおれのような、近ごろは商売もふるわぬ金貸しに一生しばられて動きの取れんことになっていいという法はない。あはははははは、おれはこれでも、自分を知っておるつもりだよ」
「何をおっしゃるのでございます。旦那様は、高を苦しめ、高を嘲弄《ちょうろう》なすっていらっしゃるのでございます。もしまた、御本心から高の財産がお眼ざわりになっていっしょになってくださらないとおっしゃるのでございましたら、それこそ、つまらないことにわずらわされておいででございます。
どうぞ、そんな添えものをごらんにならないで、高をごらんなすってくださいまし。ほんとうに柘植《つげ》の財産がお気に召さないのでございましたら、高は、惜しくも何ともございません。すぐすてますでございます」
「いかん。そういうことはならぬ。お前とおれは、何というても、これぎりのものだよ。どうにもならぬのだ」
「旦那様は、世間のおもわくばかりお考えでございます。そんなことより、もっと――」
「いいや、どうにもならぬ」
若松屋惣七がいい切ったとき、縁の障子のかげから、龍造寺主計があらわれた。龍造寺主計は、血相を変えていた。龍造寺主計は、刀を抜いて持っていた。
「若松屋。聞いておるとじりじり致すわ。話のわからぬやつだな。何ゆえお高どのをいれぬのだ」
「龍造寺どのか。貴殿の知ったことではない」
若松屋惣七が顔を向けると、龍造寺主計は、気が短いのだ。かっとして、若松屋惣七の顔へ刀をふりおろしたのだ。刀は、惣七の額部《ひたい》をかすめて、むかし女のことで惣七が眉間《みけん》に受けた傷のうえにもう一つ傷を重ねて、血が流れたのを、お高は見た。
同時にお高は、庭のむこうに一空さまが立って、じぶんを呼んでいるような気がして、
「はい」
と叫んで、はだしで戸外へ駈け出ていた。駈け出しながら、そして子供のように泣きながら、お高がちょっとふり返ってみると、龍造寺主計は、刀をぶら下げて、顔をゆがめて、ぼんやり惣七を見おろして立っていた。若松屋惣七は、ひたいの傷を懐紙でおさえて、端然とすわっていた。
五
数寄屋橋ぎわ、南町奉行所の腰かけに、木場の甚が来ていた。お調番所へ名前を通して、ここで待っているのだ。呼び出しを受けて、続々|関係《かかりあい》一同があつまって来る。
若松屋惣七、龍造寺主計、おせい様、一空和尚につれられたお高、お駒、お駒の父の久助などが急に召し出しを受けて、みな不審そうな顔をあつめて、黙りこんでいた。重々しい空気に押されて、ひそひそ話もできかねるのだ。
お高は、小石川の上水へ身を投げたのが、金剛寺門前町の和泉屋の者に助けられて、一空さまのところに届けられていたのだ。そこへ、南の奉行所から差し紙が来たので、一空さま差し添えで蒼《あお》い顔を見せていた。
ちらちらと若松屋惣七のほうを見ると、若松屋惣七は、血の黒く固まった眉間の傷を見せて、何か低声《こごえ》に龍造寺主計と話しこんでいた。ふたりは、ちょっとにしろ、斬ったり斬られたりしたことなどはけろりと忘れて、もと以上に親密になっているようすだった。
龍造寺主計は、一番平然としていた。何事もなかったように、ちょいちょいお高を見て、その鬼瓦《おにがわら》のような顔をしきりにほほえませていた。
おせい様は、お駒といっしょに、久助を左右からはさむように押しならんで、心細そうなようすだった。それとも[#「それとも」はママ]うつむいてめいめいの手をみつめていた。
一空さまと木場の甚が丁寧にあたまをさげ合った。お高も、それで気がついて、木場の甚に挨拶した。
むこうを、遊び人風の男につれられた若い女が、町内の多勢《おおぜい》にかこまれて何か慰められながら、泣き泣きお白洲《しらす》から下がって来た。おもてには、御門番と争う大声がしていた。六尺を持った同心や、書類をかかえた与力たちが、袴《はかま》を鳴らして右往左往していた。あわただしい奉行所の真昼だった。
お高は、控え所の窓へ眼をやった。窓のそとには、白い空があった。雲の峰が立っていた。それは、すくすくと高い雲の峰であった。お高は、何の形に似ているかしらと思って見ているうちに、その雲の峰が非常にいい兆《しるし》のように思われて来て、じぶんの一生と、じぶんの中に発育しつつある小さないのちの前途が、このうえなくかがやかしく約束されているような気がした。[#「気がした。」は底本では「気がした」]お高は、こころの奥で掌《て》を合わせて、雲の峰を拝んだ。
ふと振り返ると、若松屋惣七も、その雲の峰を、不自由な眼をほそめてながめていた。その若松屋惣七の顔はこのごろになくゆったりした表情だった。お高のほうを顧みて、微笑したようであった。お高も、ほほえみ返そうとしたとき、ぎいとお白洲の樫扉《かしど》があいて、大声に呼び込みがはじまった。
白洲には、白い砂が、高い窓の洩れ日に光っていた。つくばい同心が左右にしゃがみこんで、正面の高い座の下には、書役《かきやく》が机をならべてこっちを見ていた。一同が、そこで草履《ぞうり》をぬいでお先へお先へと譲り合っていると、
「早くはいれ」
扉《と》をあけていた同心のひとりがどなった。
砂にすわって待っていると、奉行の忠相《ただすけ》は、伊吹大作《いぶきだいさく》その他をしたがえて、すぐ出て来て座についた。一同が平伏しているとき、忠相は、ひとりちょっと顔を上げた木場の甚と眼を合わせてかすかにうなずいたが、誰も気がつかないのだ。
名や所の読み上げがすむと、忠相の調べは早かった。現代《いま》でいうと、超速度だった。
事件は、おもて向きはお高の入水の一件だったが、忠相は、それを取り上げて、この紛糾のすべてを快刀乱麻的に解決しようとする肚《はら》であることは、すぐにわかった。木場の甚と一空様と忠相と、三人で計らったものらしいことも、容易に察しられるのだ。
忠相は、片頬に笑みを浮かべながら、ひとり言のような調子で、ぱたぱたと片づけて行くのだ。
「龍造寺主計、吟味中ことばを改める。そちは、宿屋の亭主と申すが、宿屋の亭主が、大刀をふるって人の眉間を斬るか、宿屋の亭主か、武士か、どっちかになりきれ。すなわち、庄内藩へ帰参するか掛川の具足屋とやらへ帰るか、どちらに致す? 返答せい」
「それは、掛川へ帰らせていただきとう存じまする」
「うむ。よくよくさむらいがきらいじゃとみえるな。つぎにおせい、そちは、磯屋五兵衛の遺産いっさいを受けとったであろうな。何もかかりあいじゃ。磯五の命日をみてやれ。
さて、駒とやら申すはそちか。そちは、踊り振り事の類をもって身を立て得ると聞き及ぶが、当分、父久助とともに木場の甚方へ掛人《かかりびと》になるがよい。甚、よくめんどうをみて取らせ。
皆の者、よくわかったな。よろしい。一同立ちませい――ああこりゃ、それなる盲人は何者じゃ? なに、若松屋惣七。いや、何者でもよい。眼が不自由では困ろう。誰か寝起きの世話
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