「そうさな。愚かなやつであったな」
「あのまた、日本一も人が悪うございますよ。自分がお高の父親《てておや》の相良寛十郎のくせに、磯屋のほうへは片棒かついで化け込むと見せかけて、知らん顔してわっしのところへ面を出すなんざあ、ちょいとできる芸当じゃあございませんね」
「申しおる。お前が、前もって、かの日本一太郎を見つけ出して、そっと磯五とそういう話し合いになるように、日本一太郎のほうから磯五へ、それとなく在所《ありか》を知らせさせたのではないか。つまり、万事お前が仕組んで、磯五が引っかかったのであろうが」
 忠相がほほえむと、木場の甚も笑い出すのだ。
「どういたしまして。殿様こそお人がわるい。こうしてああして、磯屋に日本一を近づけるようにしろ。これでひとつ、磯五を取って押えるようにしようではないか――とおっしゃったのは、あれはいったいどこのどなたさまで!」
 二人の笑いに伊吹大作も加わつて、そこへ、そよ風が吹いてきて、青葉のゆらぎがゆらゆらと部屋中にうごいた。

      四

 どうして火が起こったのかわからなかったが、はやい炎の舌だった。お駒が気がついたときは、日本一太郎の姿はどこにも見られなかった。
 お駒のまわりには、赤い火の色と、ぱちぱちいう木の燃える音とがあるだけで、その中に、津浪《つなみ》のようなひびきと黒いものの動揺があった。津浪のような響きは、観客や舞台裏の人々の叫びであった。黒い物は、逃げ惑《まど》う者の頭や手や足であった。めいめい勝手な方向にもみ合って、全体としてはすこしも動かなかった。その上を、赤い馬の形をした火炎や、白い龍の姿をした煙や、紫のかたまりのような火とけむりの影やが、茫々《ぼうぼう》と、団だんと、またしいんと静まり返ってなめまわり、燃えさかっていた。
 じっさいそれは、日本一太郎が取り出してみせた、最も効果的な、もっとも幻想的な手品の一場面であった。お駒ちゃんは、今度の興行では必ず江戸の評判になって、一世一代の花を咲かせてみせるといった日本一太郎のことばを想い出して、一生懸命に舞台を駈けまわって火とけむりの下をくぐりながら、あの人はこのことをいったのであろうと薄気味わるい気がした。
 火は高く上がって、どこからでも見えるようになっていた。王子権現の手妻小屋が火事という声は、かすかに煙の見える範囲へまでたちまちのうちにひろがった。遠く近く半鐘が鳴って火消しが集まりつつあった。場所が祭の雑沓なので、騒ぎは倍にも三倍にもなった。
 お駒ちゃんは、その天人姿の扮装《ふんそう》のまま舞台をいったり来たりして走りながら、叫ぼうとしてけむりにむせる。お駒ちゃんは、下の土間に立って、人にはさまれて袖で口をおおっている磯五を見たのだ。磯五は茶人のような頭巾を脱いだことがないので、どこにいてもすぐ眼につくのだ。磯五は、左右に一人ずつ女を抱きかかえて、きちがい犬のように見にくく取り乱してあちこちよろめいていた。
 お駒ちゃんは一瞥《ひとめ》でその二人の女をみて取った。それは磯屋のお針頭のおしんと、もう一人の若いほうは、小間使いのお美代であった。お美代は、小間使いというよりも、お駒ちゃんが磯屋を出たあとは、おおびらに磯五の妾《めかけ》のようになっている女であった。おしんは、以前《まえ》から磯五とそういう交渉があって、お駒ちゃんのいたころから、お駒ちゃんとおしんのあいだには、いざこざが絶えなかったものだ。
 がお駒ちゃんは、いまその女たちのことをどうこう恨みがましく考えているのではなかった。ただ、お駒ちゃんがよく見ると、磯五がおしんとお美代をかかえているのではなくて、おしんとお美代が左右から磯五に取りすがって、磯五の進退の自由を奪っているのだ。
 お駒ちゃんは、その二人の女へのくやしさなどはこの場合忘れていた。そんなことはどうでもよくて、三人を助けたかった。ことに磯五は、何とかして救い出したかった。何ともして助けなければならなかった。
 ところがお駒ちゃんが夢中で舞台を飛びおりて、人をかき分けてやっと磯五のまえまで行くと、磯五とおしんとお美代と三人がいっしょにお駒ちゃんを見つけて、三つの口が同時に叫んだ。それは叫んだのではなくて、叫びも何もしなかったのを、お駒ちゃんにだけ、まるで三人が叫びでもしたように、大きな声で聞こえてきたのかもしれなかった。
 磯五の声は、こう聞こえた。こう聞こえたような気がした。
「お駒! 苦しい。助けてくれ! おしんとお美代がおれを殺そうとしているのだ」
 それと同時に聞こえた、あるいは聞こえたような気がしたおしんとお美代の声は、全くおなじ文句であった。
「お駒さん! 近寄っちゃいけません。近よらないでください。あたしたちは、ふたりとももっと苦しいんですよ。ですから、二人で相談して、いま、この火事を幸い、いっそ磯五さんを仲に、三人で心中するんですよ。無理心中ですよ。決して磯五さんを離しませんよ。ここで三人で死ぬんですから――」
 お駒ちゃんは、せめて磯五だけでも助け出したい、助けなくてはと思って、その磯五にしがみついているおしんとお美代にかぶりついて行ったのだが、ふたりは、まるで女とは思えない力で磯五を抱き締めていて、お駒ちゃんにはどうすることもできなかった。
 磯五は、ほう、ほうというような、鴎《かもめ》の鳴くような声を絞って、二人の女を振り切ろうとしてあばれていた。それは、火の中で独楽《こま》がまわっているように見えた。
 お駒ちゃんは、じぶんが死にそうになるので、磯五のかたわらを離れて小屋のそとへはい出したのだが、お駒ちゃんが最後に見たものは、おしんとお美代にがっしとおさえられて、火煙の中から柱のように首を伸ばしてもがいている磯五の顔であった。

      五

「すると、その駒と申す女《もの》は、助かったのか」
 忠相がきくと、木場の甚はうなずいて、
「さようでございます。助かりましてございます。じぶんでは、まるで夢のようで、何事もとんと記憶《おぼ》えておりませぬそうでございますが、おりよく父親《てておや》の久助と申すものが、娘の舞台を見ようとして来かかる途中から火事を知りまして、いそいで駈けつけ、小屋のすぐそとに煙《けむ》に巻かれて倒れているのをやっと間に合って助けましてございます」
「それは、よかった。いやしき女ながら、心がけのよいものである」
「さようでございます。焼け死んだのは三人でございます。男女の別も判《わか》りませぬほど、焼けただれておりますが――」
「ふむ、その無理心中の三人であろう、女どもは、心柄とはいい条、可哀そうなことをいたしたな。日本一太郎はいかがいたした?」
「さ、その日本一太郎でございますが、屍骸《しがい》はもとよりございませんし、屍骸がないくらいでございますから、助かったには相違ございません。が、火事以来、どこへも姿をみせませんので」
「探すな」
「はい」
 忠相はふたたびほほえんで、
「それとも、探し出して、そちと突き合わせてやろうかの」
「は?」
「いや、よそう。そちが困るであろうから」
「へへへ、お殿様、御冗談で」
「冗談ではないぞ」
「御冗談ではございません、といたしますと?」
「いって聞かそうかの」
「どうぞ。承《うけたま》わりとうございます」
「日本一太郎は、死んだのじゃ。近く死ぬようなことを申しておったに相違ない。死んだことにしておけ」
「は」
「死んだほうがよいのじゃ。高とやら申す、その娘のためにも」
「なぜでございましょう」
「父らしゅうない父であったことを今さとって、恥じているからじゃよ。しいて愛情を殺して、娘にもよそよそしくしておったことであろう。娘の妨げにならんように、身を隠したかったに相違ないな。
 死んだものじゃ。すておけ、すておけ。身を殺し、また、娘の悪夫を殺して俗に申す腐れ縁、それから娘を解き放したのじゃよ。見上げた分別じゃ。ほめてやれ。が、ほめてやりとうても、仏であったな。あははは、拝んでやれ」
 木場の甚はにっこりして、その笑顔を隠すためのようにうつむいた。が、忠相は、すばやくみつけて、
「笑いおるな、そろそろ参るぞ。よいか。ここにひとり、白髪《しらが》あたまの、他人《ひと》の頭痛を苦に病むことを稼業《しょうばい》にしておるおやじがおると思え」
「へ」
「日本一太郎と計らって、はじめから筋を編んだな」
「――」
「まず、日本一太郎の手品というに眼をつけたな」
「――」
「つぎに祭である。もってこいじゃ。そのおやじは香具師《やし》の縄張《なわば》りなどにも顔のきくところより、日本一太郎を後見し、自ら太夫元《たゆうもと》となって祭の境内に一小屋あけるな」
「――」
「日本一太郎とは、はじめから手はずがついているのじゃが、待てよ、その日本一太郎は、昔しりあいの女子《おなご》に会うて、それがまた娘の良人にたぶらかされたと聞いて、こりゃ怒りを大きゅうしたかも知れぬな。むりもない。
 いよいよ、おやじめと取り決めた計略を行なわんと、いっそうこころをおどらして、それとなく、娘の夫なる者にも来観を依頼する」
「――」
「その者は、己《おの》れの手先、おのれの味方と信じておるから、謀《はか》られるとは知らず、大いによろこび、総見の気で、女子ふたり引きつれて初日に出かけたといたそう。筋書きどおりに、火を失したな。しかも、その者は筋書きどおりに焼死いたしたのじゃ、さすがは日本一の手妻じゃ。日本一、日本一、面白いぞ」
「恐れ入りましてございます」
「何も、そちが恐れ入ることはない」
「いえ、恐れ入りました」
「そうか。恐れ入ったか」
「恐れ入りました。が、二つほど手前にはまだわからぬところがございます」
「何がためにさような手品を考案いたしたか、また、何ものが都合よく火を失したか、この二点であろうがな」
「御意にございます」
「ついでじゃ。いって聞かそう。一に、その志《こころざし》を罰し、災《わざわい》を事前にふせぎ、世の禍根を除くため、であろうと、まず推測いたすな。縁を絶たれた名ばかりの妻も、若後家となって、良縁を求めて再嫁することもできるによって、まず、このほうも人助けかな」
 木場の甚も、そばで黙ってきいてきた伊吹大作も、いつのまにか平伏しているのだ。
 忠相は、庭の木もれ陽に眼を細くしながら、ひとり言のようにつづけて、
「が、火事は放《つ》け火であるぞ」
 うめくようにいった。木甚はいっそう平たくなって、
「申しわけございませぬ。やり過ぎましたでございましょうか」
「火事は、放け火であるぞ」
「はっ」
「放け火は重罪。家財没収、家は没落じゃ。磯屋五兵衛の遺産いっさい、家屋敷、有り金、蔵の品、すべて取り上げるがよい」
「あの、磯五が放け火を――」
「さようじゃ。小屋に火を放ったのは磯五である」
「はい――して、その、お召し上げになりました磯屋の財産は」
「出したところへ返るのじゃ。拝領町屋の雑賀屋とやら申したな」
「恐れ入りましてございます」
「貴様にも似合わん。きょうはよく恐れ入る日じゃな。いや、法を用いずして、よく法を達してくれた。四方八方、届いた計らいじゃ。近ごろの会心事、礼をいうぞ」
 忠相は、そのまますっとたち上がると、そっと裾《すそ》をけるように歩いて、廊下づたいに奥へはいってしまった。伊吹大作が、あわててつづいた。木場の甚は、敷居をなめそうにひれ伏していて、主従の去ったのも知らないようすだ。雪白の髷《まげ》が、鶺鴒《せきれい》の尾のように、こまかくふるえていた。そうしたまま、いつまでもうごかないのだ。
 これより以前に、若松屋惣七は、東海道の旅をつづけて、掛川宿に着いていた。小田原、府中、まりこ、岡部、ふじ枝、島田、大井川を渡って、そこからまた駕籠《かご》、かなや、日坂、で、掛川である。太田摂津守五万三十七石の城下で、江戸から五十五里あまりだ。一本路の大通りだ。脇本陣具足屋は町の中ほど、眼抜きの場処にあるのだ。
 若松屋惣七の駕籠が広い間口のまえにおりると陽がかんかん照って通行人がぞろぞろ歩いて犬が走っ
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