の手妻使い、日本一太郎と申すものの掛け小屋に失火がございまして――」
「これこれ」忠相が、ちょっと声を高めると、次の間との襖を背に、ぼんやり控えて殿と木甚との会話《やりとり》を聞いていた用人の伊吹大作《いぶきだいさく》が、かしこまって、耳を立てた。忠相は、いや、お前ではないというように、ちらとそっちへ笑顔を向けて、木場の甚へつづけた。
「これ、気をつけてものを申せ。失火とは火を失う。過失、失態などと申して、すなわちあやまちである。その見世物小屋の火事はあやまちであったというのか。証拠は、あるか」
 木場の甚は、にっこりした。
「証拠は、ございません。しかし、つけ火にしちゃあすこし腑に落ちませんので」
「放火ならば、何人《なんぴと》か火を放ったものがあるであろう」
「それは、ございましょう」
「わかり切った話じゃ。何が腑に落ちん」
「はい、つけ火でないといたしますと、あまり都合のいいときに燃え出しましたようで。はい、何のことはないまるで、磯屋五兵衛を焼き殺すために――」
「はて。だから、放火にきまっておる」
「つけ火といたしますれば、下手人《げしゅにん》を出さねばなりませぬ」
「放火したものか。それは、わかっておる」
「はあ?」
「放火したものは、死んでおるぞ」
「は」
「法により、その放火した者の家蔵《いえくら》、家財、あきない品、一切没収じゃ」
「――」
 享保《きょうほう》七年のことで、忠相は、四十六歳になる。四十六歳の忠相は山田奉行として、また普請奉行の一年間、それから江戸南町奉行に任官してこの五年のあいだに、あまりに多くを見、多くを聞いてきている。四十六歳の忠相は、もう一度、あくびをした。あくびの余韻《よいん》を口の中でころがしているうちに、それが、謡曲とも詩吟ともつかないうなり声になって、忠相は、いつまでもそれをつづけているのだ。
 木場の甚は、平伏していた。伊吹大作は、すこしずつ何かがわかりかけてきたように、眼をきらめかせて、横を向いているのだ。

      二

 政朝に鍾馗《しょうき》を設けて、寃枉《えんおう》の訴えをきくという故事は、王代の昔だ。このデモクラテックな制度が復活して、目安箱という、将軍吉宗の命に出るものだが、忠相の建策だ。この前年、享保六年八月一日から、評定所《ひょうじょうしょ》に目安箱を置くことになった。申告受付け箱だ。これを民間に説明するために、その一月ほどまえの七月六日に、忠相は、日本橋の高札場に高札を立てさせた。
 そのころ、ところどころへ名も住所も書いてない捨て文をして、法外のことがあるので、毎月、二日、十一日と日を限り、評定所の外の腰掛けに箱を出しておく。書き付けを持って来て、この箱へ入れるのだ。
 時間は、昼間の九時間だ。箱のそとへ落としても何にもならない。悪人の仕置きに参考になる、証拠や反証でもいい。役人の私曲非分は、大いに歓迎する。繋訟《けいしょう》中の事件で、係の役人があまり長くうっちゃっておいて迷惑していることなどもどしどし投書してよろしい。
 が、単にじぶんのためや、私《わたくし》の意恨で、人のことを悪くいうのはつけないお取り上げにならない。何ごとによらず、じぶんで確かでないことや、また人に頼まれたからといって、両方のいい分を調べてもみないで、すぐ目安箱へほうりこむことはならぬ。何でもありのままに書いて、作りごとやごまかしは全然許されない。これらはすべてお取り上げにならないで、その投書は焼き捨ててしまう。
 投書はみな持って来て箱へ入れなければならない。訴人の名前、宿所は必ず明記すること。これのないものはお取り上げにならない。
 続々と投書があつまるなかに、天下国家の政道に関するものも多いが、個人の隠れたる犯罪をあばいてくるものもすくなくない。その中に、以前からちょくちょく、日本橋式部小路の呉服太物商磯屋五兵衛を呪訴《じゅそ》するものがひんぴんとあって、その中でも、ことに三通、何となく忠相の注意をひいた。
 一は、龍造寺主計と名乗る浪人から、二は、下谷拝領町屋雑賀屋の寮の料理人久助という者から、三は、小石川金剛寺内洗耳房の禅僧一空からであった。
 三通とも、日本橋式部小路の呉服屋で、茶坊主上がりの磯屋五兵衛が、陰で色仕掛けで悪いことをしている事実に触れたもので、龍造寺主計は、彼が、庄内十四万石、酒井左衛門尉の国家老をつとめている弟の龍造寺兵庫介から金はふんだんに出るので、そのとき若松屋惣七が失敗して困っていた掛川宿の脇本陣具足屋に金を入れて、その経営を引きうけて江戸を発足するまえに目安箱へ入れたものであった。
 それは、磯五が上方における若竹との旧悪から、おせい様をたぶらかして磯屋の店を手に入れたこと、それから若松屋惣七の両替ならびに仲介業《なかだちぎょう》をつぶそうとした奸悪《かんあく》な手段にまで言及したもので、完膚《かんぷ》なきまでに磯五をやっつけたものであった。
 第二の久助の訴状は、じぶんの娘のお駒と磯五の関係、磯五とおせい様の仲、おせい様をいいようにして金をせしめようとしている磯五の手段など、それも、色悪《いろあく》としての磯五の正体をむいたものであった。
 第三の一空和尚のは、若松屋惣七方の女番頭お高という女が、名義上磯五の妻ということになって縛られていて、そのため再縁はもとより、思うままに暮らすこともできず困っているからなにとぞお上の力でその縁を切って、お高を自由にしてもらいたいという、やはり色事師らしい磯五の悪辣《あくらつ》さを突いた文面であった。
 目安箱は評定所|五手掛《ごてがかり》の管轄で下役がひらいて、取るに足らないのはそのまま取りすててしまうのだが、あまりこの磯屋五兵衛という人物に関して重ねて投書があるので、取り上げになるかならないか、そこらの裁断を越前守に一任するとともに、三通の書き物をまとめて、そのまま南町奉行のほうへまわしてよこしたのだ。いわば市井《しせい》の雑事で、五手掛の役人は、もちろんとるに足らないと思ったのだろうが、この取るに足らない市井の雑事こそは、奉行越前守にとっては、天下の一大事であった。
 市井の些事《さじ》、奉行職の眼からはすなわち天下の一大事とみているのが、忠相であった。忠相は、何となくこの磯屋の一件が気になった。それは何も、表立った白洲《しらす》にかかっているわけではなく、どこといってつかまえどころのない、底にうごめいている暗流のようなものであったが、忠相は、そこに、早晩何らかの形で、事件として持ち込まれてくるであろう可能性をみたのだ。関係人物の立場とうごきとからみて、当然破裂しなければならない運命を予知したのだ。
 法は、法を用いざるをもって最上とし、取り締まりは、取り締まる必要のないように、ことを未前にふせぐのが、その任にあるものの分別である。忠相は、磯五のことが気になって、それとなく気をつけながら、おもて立った事件にならないうちに、何とか解決をつけようと試みたのだ。暗《やみ》から暗へ処分しさって、お白洲の砂のうえに持ち出させまいと考えたのだ。持ち出さなければならないにしても、その持ち出されたときには、できるだけ簡単なものになっているようにしたいと思った。
 忠相は、早くから、この式部小路と、金剛寺坂と拝領町屋をつないで、うごく推移に、眼を凝らしてきたのだ。じっと、遠くから見守っていたのだ。すべての小事件、すべての人の動き、それらはみな、いながらにして忠相の知るところだった。目前に鏡をかけて遠景を映して見るように、忠相は何もかも知っていたのだ。
 そのために彼は、三人の人物を使ったのだった。ひとりは、手附《てつけ》の用人伊吹大作の弟で錦也《きんや》であった。錦也は梅舎錦之助《うめのやきんのすけ》と偽名して、一時お駒ちゃんの情夫となり、それとなしに磯五の人物、策動、磯屋の内幕などをさぐり出した人であった。
 これは御用の役人といえば役人であったけれど、他の二人は、全く私人関係で、忠相に頼まれてうごいた人たちだった。ひとりは若松屋惣七の従妹の歌子で、もう一人は、若松屋惣七と歌子の親友である紙魚亭主人の麦田一八郎であった。

      三

 はじめ忠相は、若松屋惣七の身辺に近い者を求めて若松屋惣七の側から、惣七を通して、磯五を探ろうと考えて、若松屋惣七の縁辺を物色して、歌子を得たのだ。
 歌子は、惣七の利益《ため》になることなので、すぐ引き受けたのだったが、もうひとり助勢を求めて、大槻藩の麦田一八郎の名をあげたのだった。一八郎は自用に託して、ちょいちょい出府して来ては、それとなく若松屋惣七をとおして磯五に眼をつけていた。歌子は、お高とおせい様に交わってその方面から磯五の悪計を看視してきた。
 ふたりは、そのために多勢で片瀬の龍口寺へお詣りしようとして、それはお流れになったけれど、そのかわり、雑司ヶ谷の雑賀屋の寮まで出かけたり歌子は、おせい様と同道して、東海道を由井宿まで旅したりした。
 それがいちいち報告されて、忠相は、手の平を読むように、もう磯屋五兵衛をつかんでしまっていた。こうして磯五のまわりには、眼に見えない法の網が、日一日と細かく編まれつつあったのだ。
 このやさきに、木場の甚の手に持ちあがったのが、和泉屋の一部を柘植の財産として柘植家の唯一の血筋であるお高に譲ろうとの一件だ。
 和泉屋という大店《おおだな》の財産が動くのだし、それに、お高という女が確かにあの柘植宗庵の娘おゆうと婿相良寛十郎とのあいだにできたものとわかって和泉屋の一部へ手を置くことに決まれば、その他、あちこちから地所やら家作やら莫大な資財がお高にあつまることになるので、これは、広く容易ならざる関係を及ぼすことであるから、これらのことはすぐ奉行所の耳へもはいって来ていた。
 和泉屋からも、非公式に具申してきていたし、それよりも、木場の甚は、ふるくから深川の顔役で、公事《くじ》やその他いっさいの口ききで、数寄屋橋《すきやばし》ぎわの奉行所へは日参していたし、忠相も、しっかりした老人をみて、以前から半官式に深川一帯のことをまかせて、忠相と木場の甚とは、役目を離れて、ある意味では友人でもあった。いつもこうして、屋敷で膝ぐみで話をしてきた。
 また奉行の忠相と、相対ずくで会話《はなし》のできるのも、この木場の老人だけだった。で、和泉屋とお高のこと、そのお高へ行くべき柘植の財産を木場の甚が管理してきたことなどは、忠相は木甚から聞いて、とうに知っていた。
 だから、お高の実父の相良寛十郎という御家人がまだ生きているはずで、それが現われないのでお高のほうへ行くべきものが一時迷っているときに、木場の甚の願いを許して、江戸中の番所、寄会所、湯屋、髪結い床など人眼につきやすい場所に、あの、相良寛十郎のその後や在所《ありか》を知っていて申し出るかまたはその手がかりとなるべきことをしらせた者には礼をする意味の貼り紙をさせたのは忠相だった。
 その貼り紙が出て、日本一太郎なる手妻使いの芸人が、じぶんこそそのお高の父の相良寛十郎であると名乗り出て、そのために、和泉屋の口をはじめ、お高に巨額の財産が移ったのだが、事実は、その日本一太郎は、磯五の思いつきで、磯五に頼まれて、父と称して出たというのだ。
 磯五は、京阪《かみがた》で日本一太郎に会ったことがあるので、木場の甚の口やなどで日本一太郎を思い出して、ちょうどぐあいよく江戸に来て両国に掛かっていることがわかったから、似ているらしいからこれなら通るだろうと名乗らせて出したところが、案のじょううまく通ったのだった。
「あの磯五てえ男も、利口なようで馬鹿なやつでございます」
 木場の甚が、何かしんみりした口調でいい出していた。忠相は口をつぐんで、むう、むう、というような音を舌の上でころがしながら、じろりと木甚を見ただけで何もいわなかった。木場の甚がつづけた。
「あの日本一太郎を真物《ほんもの》の相良寛十郎とは知らずに、すっかり贋《にせ》ものを仕立てた気で出してよこしたのだから、笑わせるじゃあございませんか」
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