ことのあるのを知っているので、そのときはそれきり黙りこんでしまった。
祭の迫った十日に、日本一太郎とお駒ちゃんは、その木更津屋の宿を引き払って、王子権現の境内に木場の甚の手で建てられていた小屋掛けのほうへ移って行った。楽屋にごたごたころがっている手品の道具のかげに、筵《むしろ》のはためく音を聞きながら寝泊まりすることになった。暑いころで、雨も降りそうでないので、この野天同様の住まいはお駒ちゃんにも日本一太郎にも楽しかった。
両国で日本一太郎と同じ小屋にいた吉《よし》という若い者や、香具師の手から手としじゅう渡り歩いている連中二、三人、木戸番やら道具方やらが来ていて、それらは客席に煎餅蒲団《せんべいぶとん》をならべて、そのうえに車座になって一晩じゅう博奕《ばくち》を打っていた。手品の前座の芸人も駆り集められてきた。境内には、向かい合って、また背中あわせて、いろんな見世物の小屋がすくすくと立って、祭の支度で、王子一帯がざわざわしていた。
三
あすふたをあけるという前の晩に、日本一太郎は妙に考えこんで、楽屋の太い丸太の柱にもたれかかって、ぼんやりお駒ちゃんを見上げていた。日本一太郎は、どっちかというとおしゃべり屋のほうなので、それがときおりこうしてふっと黙りこむと、ことさら哀《あわ》れに見えるのだ。
お駒ちゃんは、その辛気臭くしている日本一太郎がいやであったから、あしたを控えて、町のようすでも一まわり見て来ようと思って、裏ぐちの梯子《はしご》からおりて行こうとすると、
「おめえは小屋にいなけりゃあいけない。いまたずねて来る人があるのだ」
「何をいっているんだい。あたしゃ王子に知りあいなんかありゃあしないよ」
「まあ、いいってことよ。お駒ちゃんはここに待っているのだ。おいらは、ちょっくら一まわり町のようすを見て来よう。あすを控えて、気にならねえこともねえのだ」
日本一太郎は、いまお駒ちゃんが考えていたことと同じことをいって、お駒ちゃんを梯子口から押しのけるようにして、じぶんは、藍微塵《あいみじん》の裾をはしょってさっさと梯子をおりて行った。地面へ着くと、上から見おろしているお駒ちゃんを振りあおいで、
「その人が来たら、おいらは今まで待っていたが、行き違いに出て行ったといってくんねえ」
そして、境内の立ち樹のあいだを縫って、まだそこここ小屋掛けやら飾り付けやらに立ち働いている人影といっしょになって町のほうに消えてしまった。
お駒ちゃんは、いままで日本一太郎がよりかかっていた太い丸太の柱に返ってその根元にしゃがんで、襟に顎をしずめて、いったい知りあいの人といって誰が来るのであろうかとぼんやり考えていると、いま日本一太郎がおりて行った梯子を上がって、そこの上がり口の筵をはぐって磯五がはいって来た。
磯五は、そこに思いがけなく、完全にすて切っていたお駒ちゃんを発見して、びっくりした。それは面白くないやつに出会ったと思ったが、磯五は、多くの女と、こういう場合には慣れているので、すぐ、そのむずかしい空気を笑いほぐそうとするように、自信に満ちた、巧妙な表情をするのだ。大げさに驚いてみせて、それからにこにこした。
「お駒ちゃんじゃあねえか。お前《めえ》は、こんなところで何をしているのだ。人が悪いぜ。さんざ探さしておいて王子くんだりの手妻小屋に隠れていようたあ」
「お前こそ何しに来たんだい。日本一の師匠は、今まで待っていたけれど、行き違いに出て行ったよ」
磯五は日本一太郎のことなどは興味もなさそうに、その、頭巾の下のほの白い顔をこころもち傾けて、
「どうしたい、おめえ、おれの心がわかってはいないのか」
「そばへ来ちゃいけないよ。あたしゃ、お前の心なんかわかりたかないんだからね――でも、さんざ玩具《おもちゃ》にされてすてられたってことだけは、これでもちゃんとわかっているんだからねえ」
「何をいっているのだ。おめえはどう変わろうと、おいらの心はちっとも変わっちゃいないのだ」
「じゃなぜ、妹だとか何だとか独廻《ひとりまわ》しておきながら、用がなくなったらほうり出したのさ」
「誰もほうり出しゃしねえ。おめえのほうで、追ん出たんじゃあねえか」
「出なくちゃならないようにしたのは、いったいどこの誰だろうね。見せつけに、あのお美代やおしんなんかとふざけたりして――誰だって、見ちゃあいられませんからねえ」
「つまらねえことをいわずに――しかし、ここでおめえを見つけたのは、まだ縁があるというものだ」
「うふっ。相変わらず口がうまいよ。もうこりごり。よりをもどそうの何のと、味なことはいわないでおくれよ、あたしみたいな素寒貧《すかんぴん》の女を相手にしちゃあ、磯五様の估券《こけん》にかかるじゃあないか」
四
「馬鹿! おめえは何か感違いをしているのだ。おいらは――」
「もうよしておくれよ。聞きたくもない」
「そっちは聞きたくなくても、こっちはいいてえのだなあ、お駒ちゃん、お前《めえ》はそんな情けないことをいうが、お前のこころはおいらにわかっているし、おいらのこころはお前にわかっているのだ。何もいざこざはねえのだ」
磯五が、妖《あや》しく光るような、不思議なうす笑いをうかべて、そろりそろりと近づいてくると、お駒ちゃんは、太腿《ふともも》のあたりに何かぴりりと走るものを感じて、泣き出しそうな笑い顔になって立ちすくんでいた。
ふり解《と》きようのない魅惑がお駒ちゃんをつかんで、磯五とのあいだに持った場面の一つ一つがお駒ちゃんの眼のまえを通り過ぎた。それは、お駒ちゃんが、宝もののように大事にしている記憶であったが、そのために、木更津屋やこの小屋裏で日本一太郎とならんで寝ているときに、お駒ちゃんは夜中に眼が冴えて眠られないで困ることがあった。
いまその夢の中の磯五が、白く笑って、もとよくしたように、お駒ちゃんの肩に手をまわそうとしたので、お駒ちゃんは溜息をついて自分のほうからすり寄ろうとしたのだが、そのとき、お駒ちゃんの見たもの、感じたものは、ぱちぱちと音をたててはぜ[#「はぜ」に傍点]て、そこら一面に燃えさかる、太い、赤い焔《ほのお》であった。
その火の中で、お駒ちゃんは、垂木《たるき》でも焼け落ちるような、大きな音であった。お駒ちゃんが、磯五の頬をなぐったのだ。
「あっ! 何をしやあがる」
それは、お駒ちゃんが、火のような自分の感情の中で、磯五の頬桁《ほおげた》へ手を飛ばしたのだった。
磯五は、感心したようににやにやして立っていたが、やがて、お駒ちゃんの憎悪に満ちた眼を見ると、はっきり怒りを感じて、つかみかかって来ようとしたが、そのとき、若い者や一座の手品師などががやがやいいながらおもてから筵をはぐって客席へはいって来たようすなので、磯五は、そのまま、すべるように裏の梯子をおりて出て行った。
日本一太郎が帰って来たとき、お駒ちゃんはまだ、狂気のように大きな声をたて、誰もいない舞台うらにひとりで笑いこけていた。
王子権現の祭の日本一太郎の手品の小屋は、満員だ。手妻に娘手踊りを加えた、新案の演し物天人娘夢浮橋が当たりを取ったのだ。五色の曇の書き割りで舞台にちょっと天上の景色を見せるという趣向も、受けたのだ。がお駒ちゃんはほんとのことをいうと、あまり感心しなかった。こんなものよりも、その前に二、三度出た、日本一太郎の指先の手品に心から感心していた。
出幕になって、お駒ちゃんは、羽衣天人のような着つけで舞台に立った。気おくれがしたが、一生懸命に踊った。見物のほうは一面の顔で、その顔を見わけることはできなかった。白いもの、黒いもの、黄色いものが重なり合って、ぼやけているだけだ。
舞台からすぐ近くのところに、磯五が、お美代とおしんをつれて、左右にすわらせて見物しているのなどは、お駒ちゃんののぼせた眼にははいらなかった。何も見ず、何も感ぜずにただ踊った。からだいっぱいと心いっぱいで踊った。かすかに感嘆の声を聞いたようでもあった。
日本一太郎の扮《ふん》している三保の漁師が眠っている上を軽く飛んで踊るところへきた。ここには、いろいろとむずかしい所作があるのだ。お駒ちゃんは夢中でそれをつづけていた。舞台のあちこちに蝋燭がついて、それが、お駒ちゃんの袖や裾にあおられて高く低くゆらいだ。その加減で、書き割りの雲がかげったり浮かんだり、走ったり止まったりするように見えた。
眠っていた漁師が起き上がった。お駒の天女と、日本一太郎の漁師と、ふたりもつれ合って踊りになった。漁師が追いかけると、天女は逃げるように舞った。戦うような、からむような仕ぐさだった。漁師の手が届きそうになると、天女はするりとかいくぐってかわした。そこで雲に作られた大きな板が一枚、ふわりとおりてきて、その蔭《かげ》にお駒ちゃんがつかまって釣り上げられる仕組みだった。それで、お駒ちゃんが消えたように見えるのだった。
その大事なところへきたので、お駒ちゃんが踊りにまぎらして上を見ると、雲の板が降りかけていた。お駒ちゃんはちょっと身構えをして雲を待った。一瞬間だが、しんとしたなかに見物の息づかいと蝋燭のゆらぎが感じられた。その蝋燭の光がだんだん大きく明るくなるような気がして、お駒ちゃんがふと奇妙なことに思ったとき、見物席に波のような怒号が沸いた。男と女と老人と子供の声のまじった、山くずれのような叫喚《さけび》であった。
お駒ちゃんははっとして、われにかえったような気がした。ぱちぱちと木のはぜ[#「はぜ」に傍点]る音がお駒ちゃんのまわりにあった。大きな赤い舌が舞台と書き割りと壁の筵と板囲いと、そのなかの人を包んでなめまわろうとしていた。締めるような熱さが四方から迫ってきた。その中で、雲の板が切り落とすようにおりてきて、舞台を打って大きな音をたてた。
お駒ちゃんは本能的にとびのいて、楽屋へ逃げ込もうとした。押された見物が、きちがいの群れのように舞台に駈け上がって来ていた。お駒ちゃんは、眼と口を大きくひらいて叫ぼうとしたが、臭い熱い煙がはってきて、声にならなかった。お駒ちゃんは、二つに折れて舞台を走りながら、つぶやいていた。火はもう小屋全体に高くあがっていた。
投げ入れ文《ぶみ》
一
「ふんそうか」忠相《ただすけ》が笑うと、切れ長の眼尻《めじり》に、皺が寄るのだ。さざなみのような皺だ。しぼの大きなちりめん皺だ。忠相は、そのちりめん皺を寄せて、庭のほうへ膝を向けた。
「ふん、そうか」
忠相は、江戸南町奉行大岡越前守忠相だ。外桜田《そとさくらだ》に近い、屋敷である。奥まった書院づくりの一室で、縁に近く、野山の雑草、雑木をそのまま移し植えてあるので、いながらにして深山にある思いがする。忠相の趣味である。
八刻半《やつはん》の陽ざしは、やっと西へまわりかけて鋭い。青葉の照り返しで、畳が青い。調度も青い。忠相の顔も青い。微風が渡る。青い影が、畳にも、調度にも、忠相の顔にも揺らぐ。わざと手入れをしない雑草と雑木のあいだを、羽虫《はむし》がむれをなして飛んでいるのが、その百千の翼《はね》が白く光って、日光のなかで塵《ちり》が舞っているように見える。忠相は、不思議な現象を発見したように、それを見ているのだ。
やがて、あくびをした。八葉剣輪違《はちようけんりんちが》いの紋服の着流しに包まれた、小ぶとりの膝を、そのあくびといっしょに、ぽん、とたたいて、
「そうか。死んだか」
といって、じろりと敷居ぎわを見た。そこに、黄びらに、木場と染め抜いた麻の印半纏《しるしばんてん》を重ねて、白髪《しらが》の髷《まげ》をみせて、木場の甚がちょこなんとすわって、おじぎのような、おじぎでないような、首を曲げて考えていた。不意に、そうか、死んだかといわれて、ななめに、ぴょこりとひとつ頭をさげた。
「はい。死にましてございます。奴《やっこ》め、冥加《みょうが》な野郎でございますよ。焼け死にましてございます」
「その、びんざさらの火事でな」
「はい。王子権現境内
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