かべて、手代のひとりが、ちょっとあたまをのぞかせた。
「日本一の師匠がおみえになりましたが」
「ああそうかい。会いましょう。居間のほうへ通しておきな」
磯五は、それを機《しお》に、女ふたりを残してにらみ合わせておいて、あたふたと室を出て行った。
出がけに、ふり返っていった。
「おしんも、何も悪くうたぐることはねえのだ。お美代は、まだ子供じゃあねえか」
「子供か子供でないか、よくご存じですねえ」
おしんはそういって、磯五を見上げたが、お美代は、眼をすえておしんを見守っているだけで、沈黙をつづけた。おしんも、そのお美代へすぐ眼を返して、また二人の女のにらみ合いになった。磯五は、そのえくぼの深い頬に皮肉のいろをうごかして、背中を向けて縁を立ち去って行った。
四
日本一太郎のいささか頭の調子の狂った幻想から生まれた手妻応用の振り事は、彼の人物そのままに、突拍子もないものだった。外題は、どっちにしようかと考えていたのが、新作|天羽衣《あまのはごろも》というのをよして、天人娘《てんにんむすめ》夢浮橋《ゆめのうきはし》ときまった。
日本一太郎は、毎日毎晩、藤代町の木更津屋の二階で、お駒ちゃんを相手に猛烈な稽古をつけていった。稽古といっても、手品の部分は、日本一太郎のあたまの中にあることなので、お駒は、そのなかの踊りだけ受け持てばいいのだった。が、その踊りがまた大変なもので、踊りの心得のないお駒ちゃんには、骨が曲げられるような苦しみであった。
が、十日もすると、お駒ちゃんの差す手抜く手がすっかり板についてきて、そのたっぷりしたからだで、見事な線をつくり出すようになった。
それは、日本一太郎とお駒ちゃんと、両方の円精《えんせい》から生まれたものではあったが、いわば、もとからお駒ちゃんの身についていたものであった。お駒ちゃんは、舞踊の才能を多分に持ちながら、じぶんでも気づかずにきたというわけだった。それを、この偶然の機会から、日本一太郎とお駒ちゃん自身と、ふたりで掘り出したというわけだった。
「おめえの踊りは大したものだよ」
日本一太郎は、破れ三味線の手をやすめて、木更津屋の壁にもたれてうっとりとしながら、よくこういった。その壁は、雨もりのあとが不思議な模様のように見えていて、どうかすると、一寸法師のような形をした、灰いろの蕈《きのこ》が一面に簇生《ぞくせい》したりした。
「どうしてなかなか結構もんだ。糸《いと》にも乗れば、ちゃんと舞台《いた》についている。おめえが、踊りの下地がねえといったのは、ありゃあ嘘だろう」
「できることを、できないといって隠すいわれもないじゃあないか。あたしゃ、みんなと同じで、一つできることなら二つも三つもできるといいたい性分なんだよ。ほんとに、踊りのお[#「お」に傍点]の字も知らなかったんだけれど、今じゃあ自分でも驚いているのさ。何だかこう雲にでも乗っているようで、ひとりでに手足が伸び縮みして動くんだよ」
「ひとりでにそれだけ踊れりゃあ、世話はねえ。大したもんだ。木場の甚さんにも話して、一小屋引き請けることになっているのだから、この分だと、いよいよ祭がきて覆《ふた》をあけるのがたのしみだ。もう地割りも済んだことと思うが――木場の身内が、幟《のぼり》や幕で景気をつけてくださることになっているのだ。まあ、日本一太郎も、一度は江戸で、花を咲かせてみることになったよ」
「お前のほうはそれでいいだろうけれど、あたしは、この自分の手踊りが心配でならないんだよ。せっかくの大きな演《だ》しものに味噌《みそ》をつけやしないかと思ってねえ」
「なあに、そんなことはねえ。それどころか、ま黙って見ているがいい。おめえは今度の舞台で、江戸中の評判になるのだ。この日本一太郎がついているのだ。その日本一太郎が大丈夫金の脇差《わきざし》と踏んでいるのだ。案ずるこたあねえよ。万事おいらにまかせて、おめえは、ただ、みっちり稽古を励みな」
日本一太郎は、こういい残して、その藤代町の木更津屋を出ると、その足で式部小路の磯屋へやって来た。そして、磯五の居間へ通されて、ぼんやりした顔で待っているところへ、ふところ手をした磯五がのっそりはいって来たので、日本一太郎は、睡《ねむ》そうな眼で見上げて、ふんと小鼻に皺をつくった。
挨拶もないのだ。それほどの仲なのだ。
「おう、磯五え」日本一太郎が、口の隅から押し出すようにいった。「お高坊のほうがうまくいって、おいらもおめえも、こんな安心なことはねえ。なあ、祝いごころで、ひとつ手妻ばかりの小屋をあげようと思うのだが、どうだ大将、見に来ねえか」
舞馬《ぶま》
一
磯五は、お高に大金がこようとして、だいたい本人ということがわかっていても、お高の父として死んだ相良寛十郎という御家人がほんとのお高の父の相良寛十郎ではなくて、ほんとの父の相良寛十郎はまだ生きているらしいので、その実父が出てくると万事解決するといってみんなが、探しているということを、木場の甚から聞き出して、さまざまにあたまを悩ましたのだった。
というのは、お高は、名義のうえでは自分の妻ということになっているのだから、お高が、そんな大きな財産の所有主《もちぬし》になれば、磯五も、何だかんだと小切りにいたぶることもできそうなものなので、それが、だいぶきまりかけていて、たった父の一件だけ引っかかっているとすれば、磯五としても、まことに残念だったから、何とかしてその実父の相良寛十郎を探し出してお高に財産がくるようにしようといろいろ骨を折ったあげく、考えついたのが、偽物《にせもの》を仕立てることだった。
木場の甚をはじめ、その身内の若い者や、一空和尚が探しまわっているのだから、とても磯五が一人の手で探し当てることができるわけもなければ、またその方便もないのだった。
ところで、偽物を仕立てるといっても、木場の甚や一空和尚は、以前の相良寛十郎の顔を見知っているのででたらめのこともできない。そこで磯五は、何度も木場の甚のところへ通って、それとなく実の相良寛十郎の人相を聞いて、ふっと思い出したのが、むかし上方のほうを放浪していたときに、ちょっと出会ったことのある、日本一太郎という手妻使いの太夫である。
思い出してみると、他人の空似ということをいうが、木場の甚の話によって磯五の心にでき上がった相良寛十郎の面影とこの日本一太郎は、年恰好から顔つき物腰までそっくりだったので、あれならきっと木場の甚や一空和尚の首実検にあっても、何しろ長らく見ないことではあるし、きっと通ってお高の実父ということになりすまし、その結果、お高は難なく財産を受けつぐことになるであろうと、そこで、自分は幸い日本橋の大店《おおだな》の旦那と納まっていて、贔屓《ひいき》にする芸人や香具師も少なくないことだから、それからそれへとだんだん手をまわして調べると、その日本一太郎という手品師は、今、おりよく江戸に流れ込んで来ていて、両国の小屋に掛かっていると知れたので、さっそく出かけて行って一伍一什《いちぶしじゅう》を話し、底を割って頼み込むと、しばらく考えていた日本一太郎が、
「それじゃあ、あっしが、その柘植のお高、もと高音といった女のおやじだと名乗って、面を出せばいいのですね」
「そうだ。いうまでもねえが、おれとは関係のねえことにして、木場の甚が、大岡様にお頼みして、自身番や寄合所に貼り紙がしてある。どこかでその貼り紙を見て、それで飛び出したことにしてもらいてえのだ」
「承知しやした。ものになるかならねえか、ひとつやってみやしょう」
で、案外、すらすらと引き請けてこの日本一太郎がお高の実父相良寛十郎であると名乗り出ると、案のじょう、木場の甚も一空さまも、磯五の思ったとおり、あまり似ているのですっかりほんものととって、それでもいろいろとためしてみる。
ところが、柘植の家のことや家出前後の事実は、磯五が、以前お高から、今また木場の甚から聞いたところをあらかじめ含めてあるし、また日本一太郎のいうところが奇妙にいちいち節《ふし》が合っていて、ついにほんとの父の相良寛十郎と認められ、お高に無事に柘植の財産が伝えられるようになったのだった。
すべてがうまくいって、お高はいま、莫大な女分限者である。磯五は、離れてはいても、そのお高の良人なのだ。そろそろ何だかんだと金を引き出してやろう。さもなければ少しまとまった金を分けさせて、それで正式に縁を切るようにしてやろうと、磯五はその機会を待っていろいろに考えながら、このごろは、上きげんの日が続いているのだ。そこへ、だしぬけに日本一太郎がやって来ての話である。
「お高のほうがうまくいって、おめえもおいらも、こんな安心なことはねえのだ。どうだい。こんどひとつ手品ばかりの小屋をあけようと思うのだが、なあ大将、景気づけに見に来てくれねえか」
磯五は、場所や日日《ひにち》のことを詳しく聞いて、連中を作って出かけようと約束したのだ。
二
七月十三日は王子権現《おうじごんげん》の祭礼で、俗にいうびんざさらの祭だ。お高のことで木場の甚と相識《しりあい》になった日本一太郎は、木場の甚の胆煎《きもい》りで、ここの境内の祭の前後五日間、自分が太夫になって手妻だけの小屋を張り通すことになって、大変な意気込みだ。
手妻などというものは大道のものか、小屋に掛かってもほんのつけたりのもので、うどん粉のようなつなぎに過ぎなかったのが、はじめて一本立ちの興行をすることになったのだし、それに、さすらいの手品師日本一太郎老人にも、芸人としての矜持《ほこり》もあれば、一世一代に、老後の思いでとして一度ははなばなしく思う存分に舞台を持ってみたいとかねがね思っていた、その機会がはからず到来したのだから、腕によりをかけて当日を待っていることはいうまでもない。
ことに江戸で有名な顔役の木甚《きじん》が太夫元なのだし、それに、日本橋の磯五が力こぶを入れている。芸人|冥利《みょうり》に尽きる話だという、評判も評判、大変な前景気であったが、本人も、一生懸命で、相変わらず藤代町の宿屋木更津屋の二階で、今度の花形のお駒ちゃんに日本一太郎新考案の手踊り天人娘《てんにんむすめ》夢浮橋《ゆめのうきはし》を振りつけて、せっせと仕上げをかけながら、
「なあ、お駒ちゃん、おめえはこれで江戸中の人気をさらうのだぜ、みっちりやってもらおう」
「それは、わたしもこれで、芽を吹くか吹かないかの瀬戸ぎわだもの、みっちりやることはやっているけれど、江戸中の人気をさらうなんて、そんな見えすいたおだてはよしておくれよ」
「ところが、決しておだてでもお世辞でもねえのだ。おめえは自分の踊りっぷりがわからねえし、それに、おいらの頭ん中にある天人娘夢浮橋の演《だ》し物《もの》を知らねえから、それでそんなことをいうけれど、おいらは考えることがあるのだ。必ずこれで当たりを取って、おめえの名を売ってやるし、おらあ第一、こんだの舞台を最後に、手品にも何にも、芸人渡世はこれですっぱり打ち切るつもりでいるのだ。
いや、芸人商売ばかりじゃねえ」と、日本一太郎は何か急にしんみり考えこんで、
「この世の中におさらばするかもしれねえのだ」
「何をいっているんだい」
天人娘夢浮橋の衣裳が届いてきたので、お駒ちゃんは、その、日本一太郎の考案になる、羽衣の天人のような着付けで、本式に稽古の身振りを励みながら、
「あたしの出るところは、ほんのちょっぴりなんだろう? 当てれば、日本一太郎というお前の名が上がるばかりさ。お前の名を上げてあげようと思って、あたしはこんなに稽古に力を入れているのさ。いやだよ。じぶんのことなんか考えてみたこともありあしない。第一、お前、この世の中におさらばするなんて縁起でもない。莫迦ばかしいこというもんじゃないよ」
「いんや、そうでねえ。おいらはもうこの年齢《とし》だからいつどんなことがあるかもしれねえというんだ」
お駒は、日本一太郎がときどきへんなことをいったりする
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