は踊るのだ」
「いやだよ。あたしゃ踊りなんかできやしないよ」
「やってもみねえで、のっけからできねえという法があるか。それがいけねえのだ。立ってみな。たって、おいらのいうとおり動いてみな」
「いやだねえ。馬鹿ばかしい。こうかえ」
お駒が笑いながらたち上がると、日本一太郎は壁から破れ三味線をおろしてきて、ぺん、ぺんと調子を合わせ出した。お駒を見上げて、眼を輝かしていった。
「ことによると江戸中の人気をさらうぜ、おいらとおめえと」
その、がたぴしいう藤代町の安宿の二階で、おじいさんの浴衣を着たお駒ちゃんに不思議な振り付けがはじまった。
天女《てんにょ》夢浮橋《ゆめのうきはし》
一
重い荷物にでもなったようなぐあいにお高は、拝領町屋の雑賀屋のおせい様の家に、べったり腰をすえて厄介になっていた。お高は、しなければならないことが山ほどあるような気がして、気ぜわしない日を送っていたが、それより、考えなければならないで、考えないで延ばしておいたことを、今しっかり考えることのできるのがうれしかった。
うす陽の当たる縁で、お高はよくおせい様と会話《はなし》をした。
「ほんとにおせい様のおかげで助かりますでございますよ。いるところもないわたくしでございますからねえ」
お高がいうと、おせい様は、眼の隅からにらむようにして笑って、
「そんなことをおっしゃっても、あなたはお金があるのではございませんか」
「いくらお金があっても、あんなお金は使うのがいやでございますから、ないも同じでございますよ」
「それで、これからどうなさるおつもりでございますか」
「若松屋の旦那様は、あとから掛川へ来るようにとおっしゃって、おたちでございますけれど、行ったほうがいいか悪いか、わかりませんのでございます。おせい様がわたしでしたらどうなさいますか」
「それは大変むずかしいことをおききでございますねえ。ちょっと御返事ができませんでございますよ」
「そんなことはございませんよ。おせい様は、わたくしどものことは、何でもご存じでいらっしゃいますから」
「それに、お飾りの数を倍近くもくぐっているのでございますからねえ」おせい様は、しんみり笑い声をたてて、「でも、ひと様のことで御相談に乗る資格はございませんよ。自分がこんな馬鹿で、さんざん莫迦な目にあいながら、まだ――」
「磯屋のことを、おあきらめになれないのでございますか」
「あなたには、すみませんよねえ。かりにも良人となっている人を――」
「わたくしは、思い切って、掛川へまいりましょうかしら」
「いいえ。掛川へいらっしゃるのは、いけませんよ」
「なぜでございますか」
「なぜでもいけませんよ。男の方がおふたり行っていらしって、お二人ともあなたに――何というお侍様でしたかしら? いつかお話しなさいましたよねえ。若松屋さんにお金をお立て替えになって、その掛川の宿屋とかをお引き請けになって、それから、お寺様へ御喜捨なすって掛川へおいでになったという――」
「龍造寺主計さまでございますか」
「そうですよ。その龍造寺主計さまも、あなたを想っていらっしゃるといういつかのお話ではございませんか。で、ございますから、掛川へおいでになるのは、およしなさいましよ。一つ家《や》で男ふたりに想われて中にはさまれるのは、あぶのうございますよ」
お高が、赧《あか》くなって黙ってうつむくと、おせい様は語をつないで、
「お高様は、若松屋さまを、慕っておいでなのでございますか」
「はい」
「それで、磯五さんとは、ちゃんと切れていないのでございますねえ。まだ夫婦ということになっているのでございますねえ」
「はい。そうでございます。一度、縁切れ状まで書いてくれましたのに、わたくしが母のお金を受けつぐことを、どこからかかぎ出しまして、その離縁状もあとから引ったくって破いてしまいましてございます。どうしても別れると申しませんのでございます。
あの人は、お金が眼当てでございますからねえ。こうなれば、どんなことがありましても、名だけでも夫婦ということにしておきたいのでございますよ。あさましい人でございますよ」
二
「お高さま、そんならなお掛川へ行ってはいけませんよ。磯五さんという人があって、若松屋さんと夫婦《いっしょ》になることができないのに、若松屋さんといっしょにいては、若松屋さんも苦しゅうございますし、あなたも、苦しゅうございますからねえ。両方がお可哀そうでございますよ」
「でも、こうして離れていて、両方が可哀そうだとはおせい様は、お考えになりませんでございますか」
「それは、想いあっていて、そうして離れていらっしゃるのは、お可哀そうでございますけれど、でも、掛川へいらしっても、晴れて夫婦《いっしょ》にはなれませんですしねえ。
それに、わたしは、その龍造寺何とか様とおっしゃるお侍が、掛川においでになるのが、心配で、何かあぶないことになりそうで、それで一つは、お高さまを掛川へ出してあげたくないのでございますよ。男の方は、どんなお友だちでも、女子《おなご》のこととなりますと、別でございますからねえ」
「さようでございますか」
「そうでございますとも。お高さまが若松屋さんを慕っておいでなさるんでしたら、いっそう掛川行きはおよしなさいましよ」
お高は、急にわっと泣き叫んで、おせい様の膝に突っ伏した。おせい様も、おろおろ声なのだ。おせい様は、泣いているお高を慰めていいか、そして、どうして慰むべきであろうかと考えているうちに、じぶんでも泣けてくるのだ。
「何も泣くことはありませんよ。世の中は、うつろなようでうつろではございませんよ。わたしは、お高さんが大好きでございますからねえ。あなたには、わたくしのような小母《おば》さんがついていますと、ようございますよ。わたしはご存じのとおりの馬鹿でございますけれど、理解《わか》ることだけはわかるつもりでございますよ。人を思うことが、どんなに苦しいことか」
おせい様の声は、すっかり涙にのまれて、聞こえたり、聞こえなかったりした。「人を思うことが、どんなに苦しいことか――この年齢《とし》になって、あの人というものが、わたしの前に立ったのでございますよ。
お高さま、お高さまは、あの人のお内儀《かみ》でございますよねえ。一度はいいえ、ひところは、心《しん》からあの人を好きだとお思いになったこともございましょうよ。どんなに女をあやなして、好きにさせることの上手《じょうず》な人か、お高さまは、よくご存じでございますよねえ。
あの人は、あの人は――あの人はああなって、お高さまもいま掛川へおたちになってしまえば、わたしは、一人ぽっちでございますよ。掛川へなぞいらしってはいけませんよ」
おせい様とお高は、たがいにかき集めるように抱き合って、長いこと泣いた。二人の周囲から世の中が遠のいて、なみだとすすり泣きの声が、あるだけだった。
おせい様が、さきに鼻をかみ出して、じぶんの膝に押しつけているお高の顔を、両手にはさんで押し上げるようにした。おせい様は、洗われたような顔を、恥ずかしそうに笑わせていた。
「泣くのはいけませんでございますよ。くたびれますよ」
お高は、そのおせい様のことばがおかしくて、今度は急に、おなかをかかえて笑い出した。おせい様も、お高の手の甲を一打ちたたいて、陽気に笑い出していた。二人は、涙をふきながら長いこと笑いくずれていた。
三
日本橋式部小路の磯屋の奥ざしきで、磯五が、十七、八の女を膝にのせてたわむれていた。その女は、お美代といって、奥向きの仕事をする女中であった。お美代は、出入りの鳶《とび》の頭《かしら》の口ききで、草加《そうか》のほうから来ている女であったが、すっかり江戸の水に洗われて、灰《あく》ぬけしてきていた。膚の白い、ぽっちゃりした、眼の涼しい娘だった。
はじめて来たとき、何であったか、何か菜をつむように台所から命じられて出て来て、中庭に迷いこんでまごまごしているところを磯五に見つかって叱られたことがあるので、磯五には、そのときから、印象に残っている女であった。
中庭は陽がよく当たらないので、露がおりたように、草がしめっていた。お美代は、磯五に叱責《しっせき》されて、しおしおと台所口のほうへ帰って行ったが、着物を濡らすまいとして、裾を引き上げて歩いていた。ふくらはぎのほうまで見えて、すんなりと蝋《ろう》のように白い脚であった。
その夜ふけに磯五は、お美代に名ざして茶を持って来させたが、その磯五の寝部屋から、お美代は、朝になるまで帰らなかった。そして、朝になって奥から下げられて来たお美代は、すぐ泣いたり、すぐ笑ったり、つまらないことで赧い顔をして、そわそわしたり、そうかと思うと、しじゅうぼんやりしているお美代になっていた。夜中に、寝巻きの肩をふるわせて、奥と下《しも》のあいだの廊下にしょんぼり立って泣いているところを、朋輩にみつかったりした。
お美代は、いつのまにか磯五を恋することを教えられていたのだ。
そのお美代を、磯五はいま膝にのせて、いろいろに膝をゆすぶって、笑っていた。
「そら! 船だぞ」
磯五が、子供にいうようにいって、そして、抱いている子供にするように、膝を大きく揺すると、お美代は昼日中主人とふざけていることを忘れて、鈴がころがるようなけたたましい声をたてて笑った。磯五はびっくりして、膝をゆすぶるのをよした。
「いけねえよ。美《み》い坊は声が大きいから、はらはらするのだ」
お美代は笑いを押しもどすように、口に袂を持って行ったが、膝をおりようとはしなかった。
「だって、旦那様が、あぶないことをなさるんですもの」
「なに、誰もあぶねえことなどしやしねえ」
「だって、落ちそうになるのですもの」
「落ちても、ころがっても、誰も見ていねえからいいのだよ」
「いけませんよ。あれ、いけませんよ。落っこちそうになりますよ。誰も見ていないといって、そこに旦那様がいらっしゃるじゃありませんか」
「おれは、いてもさしつかえねえのだ」
「いけませんよ」
「なぜいけねえのだ」
「なぜでもいけませんよ」
「なぜでもなぜいけねえのだ」
お美代は、そっとたち上がって、こんどは、磯五のほうを向いて、馬に乗るように磯五の膝にまたがって、いたずらそうに眼を笑わせた。
「さあ。ゆさぶってくださいよ。今度は大丈夫。落ちませんから」
「大丈夫落ちねえか」
「落ちませんよ」
磯五が、力を入れて膝をうごかすと、お美代は、きゃっきゃっと笑いこけながら、うしろへ倒れそうになって、それから、磯五の帯に手をかけてしっかりつかまり出した。
狭い部屋でふざけていて、笑い声と物音とが大きかったので、縁を近づいてくる跫音《あしおと》を消していた。
あし音は、部屋のまえでとまって、そこの障子がするすると開いた。
「大変なさわぎですねえ。地震かと思いましたよ」
それは、お針頭のおしんであった。おしんも磯五に負けて、よほど以前から、磯五のいうとおりになっているのであった。障子をあけたおしんは、草のように蒼い顔であった。眼が、うわずって、光っていた。おしんは、ばたばたとはいってくると、沈むようにお美代のまえにすわった。お美代は、とぶように磯五の膝からおりて、べったり畳に腰をつけていた。
突っかかるように、おしんがいっていた。
「この娘《こ》は――、この娘はずうずうしいにもほどがあるよ。前から知ってはいたけれど、真っ昼間から何だろう。こんなところで、旦那様に抱きついたりなんぞ、いやらしい」
お美代は、だまって、おしんの顔をみつめていた。おしんも、口をあけたてするだけで、無言で、相手をにらみつけた。
こまかい着物を着た年増と、派手な衣裳の娘と、それは、年とった牝猫《めねこ》と若い牝猫との喧嘩の場面を磯五に聯想《れんそう》させて、真ん中にすわっている磯五が、困りながら、内心面白くてくすくす笑って、けしかけるようなこころもちで見物しているとき、もう一度障子が人影を浮
前へ
次へ
全56ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング