で、磯屋五兵衛というのですよ。磯五というのですよ」
二
「なに、あの磯五さん――?」
日本一太郎は、おどろきを隠しようもなく、はっと顔いろをかえたが、それよりもお駒のほうがびっくりして、
「お前さまは磯五をご存じなのかえ」
ときくと、日本一太郎はすぐになにげなく装って、
「知らねえこともねえが、識《し》っているというほどの仲でもねえ。いま江戸で磯五といえあ、流行《はやり》の太物商売として、まず、名の聞いたことのねえものはなかろうじゃないか」
何だかへんだとは思いながら、お駒ちゃんも、ふかく追窮《ついきゅう》しようとはしなかった。
「あい。その磯五さ」
吐き出すようにいって、また欄干越しに、下の藤代町の狭い往来をこね返している雑沓へ眼を落とそうとすると、
「お駒ちゃん、一|風呂《ふろ》、ざっと流してこようじゃあねえか。おいらはこんな老人《としより》だから、おめえとおいらといっしょにへえっても、誰も笑やあしねえよ」
日本一太郎が、いった。そして、手ぬぐいを取ってたち上がると、お駒ちゃんもついて来た。
実の娘であるはずのお高に対しても、またそのめんどうをみている若松屋惣七に対しても、あれほど不愛想な態度をとって、恐ろしく変わり物に見えていた日本一太郎が、このお駒ちゃんにだけはこんなに打ちとけて饒舌《じょうぜつ》になるばかりか、親切も親切だし、何かと真剣にためを思う気くばりをみせるのだ。
これはいったいどういうわけであろうか。この手品師の日本一太郎が、お高の父の相良寛十郎という御家人のなれの果てだというのだが、それならば、その相良寛十郎は、どういう人間なのだろうか。
お駒とは、むかし旅役者のむれに一座して、信濃路から木曽路《きそじ》、越後《えちご》のほうと打ってまわったことがあるというだけのことなのだが、久しぶりに、お互いの生まれ故郷の江戸で会ってみると日本一太郎は、手品の手腕《うで》は達者でも、人物がこういうふうだし、それに年齢《とし》が年齢だから、だんだんと指さきの細かいトリックがきかなくなって、こうして、両国は両国でも、娘手踊りなどのあいだにはさまって見物衆のごきげんを取り結ぶサンドイッチみたいな芸人に落ちているし、お駒はお駒で、かつて田川一座の看板として旅で鳴らした太夫が男のことで悩みぬいて、気が抜けたようにふらふらと風に吹かれて、みすぼらしい装《なり》で江戸の町から町とほっつき歩いていたのだ。
父娘《おやこ》といってもいいほど年齢が違うのだから色の恋のという間柄ではもちろんないのだが、それにしても、今、お駒ちゃんが磯五にもてあそばれてすてられたと聞いたときに示した、あの日本一太郎のおどろきは、何を意味するものであろうか。このおじいさんとあの人とのあいだに、どんないきさつがあるというのだろう?
お駒ちゃんは、それが気になってたまらなかったが、相手が、磯五との関係はそれとなく隠しておきたいようすなので、ざっくばらんにきくわけにもいかなかった。そして、ざっくばらんにきくのでなければ、口うらを引くなどという器用なことはできないのが、お駒ちゃんなのだ。で、黙って日本一太郎について、その、ぎしぎしいう裏梯子《うらばしご》を踏んで木の腐ったようなにおいのする風呂場へおりて行った。
安宿にふさわしいきたない風呂場だ。泊まり客もすくないし、まだ午後もそうおそくなっていないので、ほかにはいっている人はなかった。二人きりだった。
じめじめした板の間に着物をぬいで、木の引き戸をあけると、一坪ほどの、土の黒く固まった土間に、田舎びた五右衛門風呂がすえてあった。焚き口に火がとろとろ燃えて、けむりがいぶるので、浴室の内部には、天井から壁板から、長年の層で黒光りに光っていた。
三
お駒ちゃんが思い切りよく着物を脱ぐと、白い膚がいっぱいにひろがって見えた、お駒ちゃんは、女同士ではいっているように、日本一太郎のまえにあけすけな態度なのだ。男のように手ぬぐいを肩にのせて、乱暴に湯槽《ゆぶね》をまたいだ、うす暗い中に、湯にぬれたお駒ちゃんが光ってほつれ毛を気にして、指をぬらしてはなでつけていた。上気した、ぼんやりした顔をして、洗う手を休めて考えこんでいることが多かった。
日本一太郎は、そうしているお駒のうしろに取っつくようにして、背中を流し出した。
「あれ、いいのですよ」
「なに、男の垢《あか》をつけておくことはない」
日本一太郎がそういって、構わず洗い出すとお駒ちゃんは、いやな顔をして、泣き出しそうな声になった。
「ほんとにいいのですよ。じぶんで洗えますから」
「なに、おいらは、じぶんがしてもらいてえことは、先に人にするのだ。ははははは、この代償に、おいらも一つ、おめえに背中を流してもらおうと思ってな」
日本一太郎が笑うと、お駒ちゃんもはじめて、お駒ちゃんらしい大きな声をたてて笑った。
「そうねえ。じゃあ、かわり番こに洗いっこしようよ」
「それがいいのだ。おめえといっしょに湯にへえるのも、楽屋風呂以来、久しぶりじゃあねえか」
「おふざけでないよ。楽屋風呂なんて、いっぱし役者めいた口をきくけれども、ぜんたい楽屋にお風呂のある小屋へなんか、掛かったことはなかったじゃあないか」
「ははははは、そういえば、まあ、それに違《ちげ》えはねえのだが――」
「おじいさん、これからどうするつもりさ。両国が済んだら」
「さ、そのことだが、おいらにはおいらで、これでも考えてることもあり、かかってる口もあるのだ。としよりだって男一匹だ。なあ。どうころんだところで、身の立たねえということはねえのだが、それより、おめえはこれからどうしてやってゆく気だ。まず、それから聞こうじゃあないか」
「それがあたしには、さっぱり目当てがないのさ。おさき真っ暗でねえ」
「おめえさえ居る気なら、おいらのところにいてもいいのだが」
「そうかい。でも、そうもゆくまいしねえ」
「おいらはいっこうかまわねえが、まあゆっくり考えてみるがいい。それあそうと、さっきちょっと話に出た、磯五とかいう呉服屋とおめえとの一伍一什《いちぶしじゅう》を聞こうじゃあねえか。そのうえでまた、おいらも何かと力になったりなられたりするつもりなのだ。いいから、初手から話してみな」
お駒は、たどたどしいことばで、磯五との情事をはじめから話し出した。
磯五に頼まれて、おせい様をだますために、その妹になりすまして式部小路の家へはいりこんだことや、内儀に直すという約束で、磯五にすべてをあたえたことや、そのほか、お駒のはなしには、お高の名や、父の久助のことや、お針頭のおしんや、磯五がじぶんの眼のまえで関係して見せる小間使いのお美代や、いろんな女の名まえがたくさん出て、だいぶこんぐらがっているので、日本一太郎は、筋みちを理解するために、眉のあいだにふかい皺をつくって、気を詰めてきいていた。
四
風呂から上がると、お駒は日本一太郎の浴衣《ゆかた》を借り着した妙な恰好で、部屋の隅に長くなって眠ってしまった。
お駒ちゃんが眠っているあいだ日本一太郎は、風呂場から持ち越した眉根の皺をそのままにして、何かしきりに考えこんでいるふうだったが、やがて何ごとか決心がついたとみえて、渋紙いろの顔にはじめて晴ればれとした色が上《のぼ》ったとき、ちょうどそれを待っていたかのように、お駒が眼をさまして、ごろりと日本一太郎のほうへ向き返った。日本一太郎は眼を笑わせた。
「眠れねえなんて、眠ったじゃあねえか」
「そうだねえ。眠ったようだねえ。すこしはとろとろとしたかしら」
「冗談じゃあねえぜ。あれを見な。もうとうに陽がかげって、お向家《むけえ》の油障子に灯《あかり》がにじんでいるのだ。かれこれ一刻半《いっときはん》もぐっすり眠《ね》たかな。どうだった、夢は見たかえ」
「不思議なものだねえ。見なかったよ」
「そうだろう」日本一太郎は笑って、「ひとりでくよくよ考えているから、そいつが鬱《うっ》して夢に出るのだ。五臓の疲れとはよくいったものよ。おいらに話したから、すっぱりして、こころの荷がおりたのだろう」
「そうかもしれないねえ」
おき上がったお駒ちゃんが、からだに合わない日本一太郎の着物を持て余して、襟をかき合わせたり袖ぐちを引っぱったりしていると、日本一太郎は、語をつないで、
「さあ、ここにいることに心がきまったろう」
「いてもいいのだけれど、何かすることがないと、気づまりも気づまりだし、それに、からだが遊んでいると、どうしても余計なことを考えてねえ。やっぱりどこかへ行って、つてを探してもう一度芝居にもぐりこんで、田舎落ちでもしてみようかと思うよ。お前の顔を見たら、急にぼたん刷毛《ばけ》をおもい出して、昔がなつかしくなったのさ」
「何をいやあがる」日本一太郎は、お駒の気を引き立てるように、わざと伝法に「むかしがなつかしいの何のと、そんな年齢でもないじゃあねえか。娘っこのくせに、巾《はば》ったい口をきくもんじゃあねえよ」
笑っていたお駒が、ふっとさびしそうに黙りこんだので、日本一太郎は、芝店か何ぞのようにやさしくいざり寄って肩に手をかけた。
「おいらのところへ来て、働いちゃあどうだ」
「お前のもとへかえ。何か仕事があるのかえ」
「あるのだ。あるからいうのだ」
「だけど、あたしゃ手品はできないもの――」
「なに、手品をしろというんじゃあねえ。おいらはいま、大きな祭の口を一つ受けようかと思っているんだ。五日ばかり境内に小屋を張って、日本一太郎の手腕《うで》いっぺえに、手品だけで打ち通してみねえかというのだ。深川の顔役で香具師《やし》のほうもやっている木場の甚てえ親分とな、ちょっくらほかのかかり合いで相識《しりあい》になったのだが、この仁《ひと》がいってすすめてくださるのだ。
おいらも、その先長えことではなし、一世一代に、手妻の一点張りで舞台《みせ》を張ってみてえ気もあってひとつ根限り、幻妖《げんよう》摩訶《まか》不思議てえところを腕によりをかけて見せてえ気もちも大きにあるのだが、ついては、新奇の演《だ》し物《もの》をつくって、思い出話にもなるように凝《こ》れるだけ凝って呼びものにしてえと思うのだ。手品といったところで生やさしいことでは客はつかねえよ。
そこで一つ考えてることがあって、それにあ女がひとりいるのだ。面と姿が人形のように美《よ》くて、それで色気がたんまりあろうてえ髱《たぼ》が一枚入り用なのだ。ちょうどおめえのような――」
話しているうちに、日本一太郎はだんだん興奮してきて、がくがくあせり出しながら、お駒の肘をとって揺すぶるようにするのだ。かみつかんばかりにことばをつないで、
「実あさっき、おれあおめえのからだを見るために、ああしていっしょに湯にへえったのだが、あれならどうして、振り事でも所作でも、融通のきくいいからだだ。上背はたっぷりあり、四肢《てあし》はすんなりと、おまけに、顔はそのとおりきれいだし、第一、そのおめえの身から、ほんのりにおってくる色気が大したものだよ。千両ものだよ」
日本一太郎はお駒ちゃんのはだかを想描するようにうっとりと眼をつぶって、唄《うた》うようにつづけるのだ。
「何にもむずかしいことはありゃあしねえ。おめえならすぐ覚えるのだ。ちょっと稽古《けいこ》すりゃあわけあねえよ。女を出して、どう持ってゆくかてえことは、ここんところ、おいらもまだ考えてる最中で、しかとは決まっていねえが、とにかくあっと見物の度胆を抜くものでなくちゃならねえ。
おいらも、日本一太郎として、一度は江戸中の評判にもなってみてえのだ。日本一太郎――全く、自慢じゃあねえが、おいらの手品はにっぽん一だと、まあ自分じゃあ思っているのだ」
「それはそうだろうけど」お駒ちゃんは、乗り気と不安をちゃんぽんにした眼で「あたしはいったい何をするのさ」
「新作|天羽衣《てんのはごろも》、天人娘《てんにんむすめ》夢浮橋《ゆめのうきはし》、外題《げだい》はまだ決めちゃあねえが――おめえか、おめえ
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