が、女をつかんで離さぬ力も、考えてみれば、不思議な気がする。いや、どちらも不思議なことはないのかもしれぬが」
「おせい様が磯五のことを思い切れずにいるものですから、わたくしがおせい様のところへ行くと、おせい様を苦しめるようなもので、いつも、長くはいられないのでございます」
「そんなところへ行かんでもよいではないか。何ゆえさように食客のようなまねをして歩こうというのだ。金はどうしたのだ」
「ひとりでぼんやりしてはいられませんでございますもの。それに、あのお金はまだほんとに自分のもののような気がいたしませんでございます。手をつけるのがいやでございます」
「高」若松屋惣七は、伸び上がるようにして、声を低めた。
「掛川へ来ないか」
「掛川へ――」
 お高は、おうむ返しにくりかえしながら、龍造寺主計の顔を思い出していた。龍造寺主計は、まだはるかにお高にこころを寄せているに相違ない。お高には、それが感じられるのだ。
 お高は、若松屋惣七と龍造寺主計と、ふたりの男にはさまれることを思うと、とても掛川へ行く気にはなれなかった。行けば、この二人のあいだに、何か恐ろしい問題が起きそうな気がして、それは、どうしても避けることのできないものに思えた。
 お高は、ひとり言のように答えていた。
「いいえ。掛川へ行くことはできませんでございます」
「掛川へ行けば、もうすこしものごとがはっきりいたすまで、柘植の財産に手をつけずに、やって行くことができるのだ。具足屋の仕事を手伝ってもらおう。龍造寺殿も、喜ばれるに相違ない」
 その龍造寺主計が、朴訥《ぼくとつ》なたましいでお高を愛しているために、お高は、掛川へ行けないのであったが、そうはいえなかった。黙っていると、若松屋惣七は、潮が引くように白い顔になっていった。
「お前も、磯五のことが気になって、江戸を離れられぬのかな」
「まあ、旦那様、そんなことはございません」
「そんなら、来い。掛川へ来い。あすいっしょに、というわけにもゆくまいから、あとから来い。そのように手はずをつけておいてやる」
 お高は身をひるがえすように、若松屋惣七に向き直った。口をあけて、何かいおうとした。何かいおうとすると、じぶん以外のほかの意思のようなものが、ことばになって、その口を出たのであった。
「はい。それでは、あとから掛川へ参りますでございます」
 が、お高は掛川へは行かなかった。やっぱりいざとなると行けないでぐずぐずしているうちに、日がたっていっそう行けないことになったのだ。
 若松屋惣七は、もう掛川へ着いて、お高を待っているに相違なかった。
 お高は佐吉を供につれて行くことになっていたので、佐吉は一日に二度も三度もお高の部屋へ顔を出して、いつ発足するつもりかとききに来た。お高は、行く気のないところへ、そういってこられるのが、苦しかった。それよりも、掛川で待っているであろう若松屋惣七と龍造寺主計のことを考えると、いっそう気が重くなって、そうやって逃げるように延ばしていることさえ、苦痛になった。
 お高は、若松屋の留守の者にはゆき先を告げずに、そっと拝領町屋のおせい様の家《うち》に隠れてしまったのだ。

      四

 駒留橋を渡って、藤代町の宿へ帰ろうとするところで、日本一太郎は、足をとめた。路《みち》ばたにしゃがんで、切れた草履の鼻緒《はなお》を、一時しのぎに何とかつくろおうとしている女の横顔に、眼が行ったのだ。
 若い女だ。色あいの派手な、しかしよごれ切った衣裳を着けて、腰を二つに折っているので、太腿《ふともも》のあたりの肉が、着物のうえにむくむくして見えているのだ。女は、鼻緒は手におえないと知って、そこに落ちていた縄ぎれで草履を足にしばりつけて歩き出そうとした。
 それは、お駒ちゃんであった。お駒ちゃんは、つぶらな眼をそわそわと動かしたが、じぶんを見ている日本一太郎には気がつかずに、そのままみすぼらしい身装《みなり》を恥じるように、軒下づたいに歩き出そうとした。
 老いた日本一太郎の顔に、よろこびの色がうかんで、彼は、足早に追いすがりながら、声をかけた。
「おい、お駒太夫じゃあねえかい」
 お駒ちゃんは、悪いことをしていたところをみつかりでもしたように、ぎょっとして立ちどまって、ふり返った。
「あら、誰? おや、日本一のおじいさんじゃあないの」お駒ちゃんは狼狽して「いやだよ。へんなところで会ったねえ」
「そっちはへんなところかもしれねえが、こっちは何も、へんなところではねえのだ。おいらはいま、そこの両国の小屋にかかっていて、これからついそこの藤代町のとやを帰《けえ》るところなのさ。それはそうと、久しぶりじゃあねえか」
「ほんとに久しぶりだねえ。あれから」
 と、お駒ちゃんは遠いところを見るような眼になって「何年になるかしら」
「三年だ」
「早いものだねえ」
「早えものさ。三年は三年でもおれとおめえが、あの田川《たがわ》の娘芝居に一座して、信濃路《しなのじ》を打ってまわったころとは世の中も変わったぜ」
「あいさ。世の中も変わったか知らないけど、あたしも変わったのさ。変わらないのは、おじいさんばかりだよ」
「こいつあ耳に痛えや。相変わらず娑婆《しゃば》の場ふさぎといいてえところだ。あれからどうしたい?」
「おじいさんこそどうおしだえ」
「おいらか。おいらは――ま、おめえこれからどこへ行くのだ」
「どこへ行くといって、ここへ行きますという当てはないのだよ。ただこうやって町を歩いているのだもの」
 日本一太郎が、はじめてお駒ちゃんのみすぼらしい服装《なり》に気がついたように、改めて、まじまじとお駒ちゃんを見直すと、お駒ちゃんは、ほろ苦く笑って、袂でからだを包むような恰好をした。
「女の子がきたないなりをしているときに、そんなに見るもんじゃないよ」
 日本一太郎の端麗な老顔を、同情のいろが走りすぎて、お駒ちゃんを促して藤代町のほうへまがりながら、
「ちげえねえ。田川の一枚看板のお駒太夫が、そのぱっとしねえありさまはいってえどうしたというのだ」
 お駒ちゃんは、負け惜しみのように、陽気らしく細かく笑って、
「話せば長いことながら、さ」
「いずれそんなところだろう。まあ、あとでゆっくり聞くとして、おめえ何かえ、いまあぶれ[#「あぶれ」に傍点]ているてえわけかえ」
「あい。早くいえばね」
「相変わらず、いやに胆《たん》がすわっているぜ。粋《いき》すじだろう。ははは、こいつあお手の筋だ」
「まあ、そんなところかね」
「他人《ひと》ごとみてえにいってやあがる。おいらもきょうはもうからだがあいているのだ。どうだ、これからおいらんところへ来て、一ぺえやりながら、そのおめえの苦労話てえのを聞こうじゃあねえか。惚気《のろけ》でもなんでもいいや」
「そうかい。じゃ、まあ、ついて行くことは行くけど、そんな悠長《ゆうちょう》なんじゃあないんだよ。食べるか食べないかのどたん場まできているんだからねえ。男なんか、もう、ふっふっ――」
「どうだか、怪しいもんだぜ。お駒太夫が男ぎらいになったら、おいらは今一度、廿歳代《はたちでえ》に若返《わかげえ》るだろう」
「人聞きの悪いことをおいいでないよ。ほんとに男じゃあ今度ですっかり手を焼いたのさ。それはそうと、お前さんはまだ茶番のほうかい」
「そうそう。そういえば、田川では、おいらは茶番のまねみてえなことをやっていたっけな。おめえは大名題《おおなだい》――なに、今だって、いつだって、おいらは茶番をやっているのだ。生きて行くてえことが、それだけで茶番なのだ」
「また十八番《おはこ》がはじまったねえ。それはそうだろうけれど、両国の小屋では、何をやっておいでだときいているのさ」
「おいらはもとから手妻師なのだ。両国でも、手妻のほうをやっているよ」
「あたしも、いまになってみると、いっそ芝居のほうをやり通してくればよかったと思っているのさ。何やかや、おじいさんには、聞いてもらいたいことが山のようにあるんだよ」
 二人はちょっとしんみりして、押し黙って、狭い藤代町の通りを歩いて行った。陽の弱よわしい夕方近いころで、通る人の影が、寒く長く路上《みち》に倒れていた。やがて、下《した》っ端《ぱ》芸人などの泊まる、木更津屋《きさらづや》という軒|行燈《あんどん》を掲げた安宿の前へ出ると、日本一太郎は、顎《あご》をしゃくって、お駒ちゃんをかえりみた。
「ここだ」


    昼の風呂《ふろ》


      一

「おめえ様は、くたびれていなさる」日本一太郎は、一なでなでるような視線で、おちぶれたお駒ちゃんのようすを見ながら、いった。「一しきり横になって、休んだがいいぜ」
 が、お駒は、狭い二階の縁にぺちゃんとすわって、欄干に肘をかけて下の往来を見ながら、声だけ日本一太郎のほうへ向けて、
「あい。くたびれてはいるけど、あたしゃ昼寝られない性分でね。まあ、こうやってぼんやりさせていてもらおうよ。それより、あれから後のお前のはなしでも聞こうじゃないか」
「おれのはなしなんて、何もいうこたあねえ。判で押したように、きまりきったもんだ。おいらはどだい手妻つかいなんだから、ああして田川の一座がこわれてから、もとの東西東西にけえって諸国をうろついただけのことよ。
 ゆきさきの食いものと女だ。なあ、それぞれ味が違うから、若えうちあ面白いが、おいらみてえに、こう年齢《とし》をとっちゃあからきし意気地がねえ。やっぱり江戸が恋しくて、この四月に舞いもどって来たんだ。今じゃあ、まあ、両国で、どうやらこうやら小屋を掛けているよ」
「そうかい。それはよかったねえ」お駒は、人間が変わったように、しんみりした女になっているのだ。そう思って、日本一太郎がじっとお駒をみつめていると、お駒はその心もちを読んでそれにこたえるように、つづけた。「あたしのようなはねあがり女《もの》でも、苦労をすると、これで、ちったあ落ちついてくるよ。ひどい男《やつ》に引っかかってねえ、お駒太夫も、われながら愛想《あいそ》がつきるほどだらしがなくなっちゃったのさ」
「おめえのことだ。さぞ意気な筋だろうぜ。年寄りを相手に、色ばなしも乙なものだ。そもなれそめはから一段語ったらいいじゃあねえか。こっちから、酒さかな持ち出しで、きこうてんだ」
「いやなこった。ひる間あんまりしゃべると、夜|眠《ね》られなくなるから、ま、ごめんこうむっておこうよ」
「こいつあよっぽど参っているのだな。昼寝られなくて、夜眠られなくて、それじゃあいつ睡《ねむ》るのだ。おめえは、ねむるのが恐ろしいのだろう?」
 日本一太郎にこういわれて、お駒は、図星《ずぼし》をさされたようにちょっとどぎまぎしながら、
「なに、そんなこともないのだが、眠るときまって夢を見るのだよ」
「さ、その夢が恐ろしいのだろう」
「夢は、恐ろしいことはないのだよ。その男とあっている夢だもの」
「夢は恐ろしくなくても、その同じ夢を見ることが、おそろしいのだろう。おめえが何といおうと、おめえの顔にそう書いてあるのだ」
 お駒ちゃんはびっくりして、あわてて顔をふきとるような仕草をすると、日本一太郎は笑って、
「ふいたってとれやしねえ。おいらには、ちゃんとわかるのだ。おめえは、夜ひる眠ることもできずに、その男のまぼろしを抱いて、野良犬のように、江戸の巷《まち》をほっつきまわっていたのだろう。薄情男に、石ころのように蹴られながら、その男の思い出を追っかけて、きちがいみたいに歩きまわってきたのだろう」
「そんなことはないのだよ」
「ないことがあるものか。鏡を見な鏡を。顔だって、からだだって、昔のお駒ちゃんの面影はありゃあしねえ。まるで、お駒ちゃんに似せた案山子《かかし》みたようだ」
 お駒が、ぎょっとすると、日本一太郎は、彼の所有物《もちもの》のなかで一番高価らしい、村田《むらた》の銀張りをからりと投げ出すように置いて、ひと膝乗り出してきた。
「どこの何という者だ、その薄情男は」
 追い詰められたような声が、お駒ちゃんの口を出た。
「日本橋式部小路の呉服屋
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