う」
「いいえ、あきらめていらっしゃることはあきらめていらっしゃるのですけれど、でも、眼に見ると、毒でございますよ。気が迷って、苦しくなりますでございますよねえ」
「うむ。そうじゃ。磯五め、何しにここへ来たのかな」
「ほんとに、何しに来たのでございましょう」
 広い屋敷だ。若松屋惣七に別れて、お高がひとりでおせい様の部屋へはいって行くと、おせい様は、見たくもない磯五が、突然訪れて来たのに動揺を感じて、紙のように白い顔だ。といって、ああして慣れなれしく来ているものをたたき出してやるわけにもいかないので、おせい様は、みじめに困惑しているのだ。くちびるをおののかせてお高を見上げたきり、意味の不明な微笑で頬をゆがめた。
 お高も、恥知らずといおうか、ずうずうしいといおうか、磯五という人間に、口もきけないほどいよいよあきれ返っていて、すぐには磯五のことを話題にできなかった。
「知らん顔していらっしゃいましよ。ああいう人には、それが一番いいのですよ」
 お高がそういうと、おせい様は、泣き出しそうに口をそらして、それでもにっこりした。
 お高は、心からおせい様をあわれに感じた。

      二

 おせい様の部屋を出て、庭に沿ってすこし行った渡り廊のかどに、磯五がにやにやして立っていた。知らんふりして通り過ぎるのも子供らしかったので、お高は、挨拶だけした。
「珍しい人が珍しいところに立っていますねえ。よく当家《ここ》へ押しかけて来る顔がありましたこと」
「脚《あし》があらあ。行きたけれあどこへでも行くのだ。亭主が女房に会いに来るに、べつだん不思議はあるめえじゃねえか」
「おや、誰が誰の亭主で、誰が誰の女房なのか、お前さまのいうことを教えてくださいよ」
「まぬけたことはいいっこなしにしようぜ。おいらがおめえの亭主で、お前《めえ》はおいらの女房なのだ」
「あれ、忘れてはいやでございますよ。縁切り状は何のために書いたのです」
 すると磯五が、縁切り状? そんなものは夢にも知らないというので、お高は、あれ以来身につけて持ち歩いているあの離縁状を取り出して、磯五に突きつけてやるつもりで開こうとした。その瞬間に、磯五の手が伸びてきた。それは手品のように速い動作だった。磯五は、両腕を使った。片方の掌《て》をお高の顔いっぱいに当ててうしろへ押しながら、他の手で引きむしるようにその紙を奪いとった。
 お高は大声をあげようとしたが、口をふさがれているので、意味のわからないうめきになってしまった。磯五はすぐ、縁切り状を握った手を懐中《ふところ》へ入れて、何事もなかったようにゆきかけようとした。お高はぼんやりして、どうしていいかわからなかった。離縁状などというものを奪ったり奪われたりしているのが夫婦喧嘩のようで人を呼び立てるのはいやであった。
 ただ磯五の卑怯《ひきょう》な仕草はいうまでもないが、何ゆえこんな泥棒のようなことをして引ったくらなければならないのだろうか。
 一度は縁切り証文を書いたものの、あとになってみると、自分と別れるのがそんなにつらいのだろうか。あんなに、わりにあっさり書いてくれたものを、今になってどうしたというのだろう。そんなに自分を思っているというのかしら。
 お高が馬鹿々々しい感じが先に立って争う気もちにもなれないでいると、磯五はお高のほうへ、礼でもいうようにちょっと笑顔をみせて、ゆったりした歩調で廊下を歩き去った。
 お高は、若松屋惣七に、このいきさつを話さなかった。引ったくったほうも、ひったくられたほうも、どっちもどっちのような気がして話す心もちになれなかったのだ。
 若松屋惣七と歌子と、岩槻から来た麦田一八郎の紙魚亭主人と、おせい様は、お客さまが好きであった。ことに、こうしてすこしでも江戸を離れていると、江戸の人をなつかしがっていつまでも引きとめておこうとした。が、そこへ、水の上へ油が一滴落ちたように、決してまじらない存在として、自分勝手に磯五が割り込んできて、がんばっているのには、悩まされた。
 が、もともと相識《しりあい》はしりあいなのだし、知りあいどころか、ついこのあいだまで大事な情夫《おとこ》であったのだから、そうむげ[#「むげ」に傍点]に追い立てるということも、おせい様にはできなかった。煮え湯のような気持ちでいながら、人前では、さりげない応対だけはしていた。磯五は、それをいいことにして、のんべんだらりと滞在していた。みな磯五に白い眼を向けて、何かしら激しい空気が、日増しに凝結していくようにみえた。
 若松屋惣七と紙魚亭主人の一八郎とは、磯五の姿を見かけるたびに、よく眼をかわしてうなずき合っていた。若松屋惣七は、ぼんやりした網膜に磯五を追いながら、苦にがしげに口を曲げた。
「きやつはいずれ殺《ころ》されることになるであろう。磯五自身のためにも、みなのためにも、彼男《あれ》は一日も早く殺したがよい」
 そんなことをいって笑った。聞こえないから、磯五は、平気の平左だったが、聞こえても、おそらく平気だったろう。

      三

 そのうちすこしずつお高にわかってきたことは、磯五が、あのいまお高にこようとしている莫大な財産をかぎつけて、それでこう急に、しつこくそばを離れまいとしだしたのではないかという懸念であった。
 どうして知るようになったのか、それが腑に落ちなかったが、もしあの財産のにおいをかいだものとすれば、お高を放すのが惜しくなって、ああして一度書いた縁切り状を奪い返したことも読めるのだ。内実はどうでも、表向き夫婦ということになっていれば、お高のものは磯五の自由になるに相違ないのだ。磯五のことだから、すくなくともそれまで、どんなことがあってもお高の身辺から身をひくまいとするにきまっているのだ。
 お高は、何ゆえ早くここへ気がつかなかったろうと迂濶《うかつ》に思えて、同時に、あさましい気もちがこみ[#「こみ」に傍点]上げてきた。そんな金なぞいらないと思った。考えてみると、はじめからほしくも何ともなかった財産なのだから、それにいま、磯五という銀蠅《ぎんばえ》か黄金虫《こがねむし》のような男がくっついてきて、それと争わなければならないようなことになるなら何もほしくない。いっそ母の金など一文も手にはいらないほうが、さばさばしていてどんなに気持ちがいいか知れないと思った。
 が、一方そういったものでもなく、母の金は当然受け継いでおいて、磯五のほうこそいかなる方法でか振り切るべきではないかとも、考えられた。そしてそれには財産がきたらその中から、相当の額《もの》をやって追っ払うのが一番いい。そういうことにしましょうとお高は決心した。
 若松屋惣七とも、たびたび談合した。
「どういうことになるのか、わしにもわからぬ」
 若松屋惣七は、珍しく悲痛な調子だ。若松屋惣七が悲痛な調子になると、よく見えない眼が白っぽくきらめいて、顔の傷がくっきり浮き立ってくるのだ。それがいつもお高の哀感をそそって、若松屋惣七の顔を見られなくするのだ。
 お高は、この方はやっぱり自分を思っていてくださる。そして自分も、旦那様を愛しているのだ。愛しているとはっきり気がつかないほど、心の底の深いところから愛しているのだ。そんな気がして若松屋惣七の膝へ顔を投げて泣き入りたかったが、そうはしなかった。磯五との関係が白か黒かに決着がつくまでは、じぶんの感情も流れにまかせてはならないし、若松屋惣七のこころもちをも、これ以上突き詰めたものにしてはならないと、とっさに気がついたからだった。
 お高は、おなかの子供のことさえなければ、何もかもそのままにして、自分一人でどこか遠い旅へでもたってしまいたかった。それは若松屋惣七の前にいると、じぶんも苦しいし、若松屋惣七をも苦しめるのが、それがまた苦しいので、いっそそんなことも考えられるのだったが、それは、お高が若松屋惣七を恋しているからで、ではといって、思い切ってそうし得ないのも、つまりは、同じ理由からだった。
「お金をやって手を切ってもらえれば、一番いいのでございますけれど、そのお金がくるのやらこないのやら」
「縁切りになっておると申したではないか」
 お高ははっとして、その若松屋惣七のことばを無視しようと努めた。そして、
「いっそ死にでもしてくれますと――」
 といいかけて、いっそうはっ[#「はっ」に傍点]として口をつぐんだ。あわてて、上眼づかいに若松屋惣七を見た。
 若松屋惣七は、平然としていた。聞こえないようすなのだ。しかし聞こえないはずはない。若松屋惣七も、そのお高のことばを無視して、ぎょっとしたのを隠そうとしているらしかった。表情のない人なので、顔には何も出ていなかった。
 しばらくしていった。
「わしとお前とのことは、どこまで行っても、同じであろう。近いようで遠い。な、それだけのことじゃ。これは、星が悪いのであろうとわしは思う」
 若松屋惣七は、ここで珍しいことをした。大声を立てて笑ったのだ。その笑い声に消されて、お高の泣き声は、若松屋惣七には聞こえなかった。

      四

 若松屋惣七が、麦田一八郎にも頼んで、二人で磯五を看視して、お高に近づけないようにすること、そのうちには、お高の出生や生い立ちを知っている生きた証人も現われるだろうし、父として死んだ他人の相良寛十郎と、ほんものの相良寛十郎との仔細《しさい》も分明して、財産の一件もどのみち落ち着くことであろう。そういう話になって、当分はじっとしているよりほかないのだった。
 十日ほどして、磯五からのがれるために、おせい様は西京《さいきょう》のほうへ旅をすることになった。気候はよし、東海道の宿々をつぎつぎに下って行くのも、一興でないことはなかった。
 お高と歌子が、そのぶらぶら旅にいっしょに行くことになった。若松屋惣七と麦田一八郎は、ひとまず金剛寺坂の家へ帰って、若松屋の仕事に一区切りつけて後始末をみてから、一足遅れて江戸をたつことになった。途中で追いつこうというのだった。女だけの三人旅でも、歌子という、武技にひいでた男まさりがついているから、安心であった。
 若松屋惣七は、久しぶりに紙魚亭と歩いてもみたかったが、何よりも、掛川の具足屋に行っている龍造寺主計に会って、その後のようすを聞きもし、具足屋のふとりぐあいを見たかったので、これを機会に、五十三次をする気になったのだった。
 ところが、あす発足という前の晩に、深川の木場の甚からお高のところへ飛脚が来て、探していた証人がみつかって、いよいよ柘植の財産の引き継ぎが決められなければならないから、大急ぎで来るようにという書面が届けられた。
 ここまで話が進んでくると、木場の甚ばかりでなく、和泉屋の総本家のものとも会って、いろいろこみ入った相談にはいらなければならないのであった。それには、時を移さず、ふか川要橋の木場の甚の家へ駈けつけることが必要だ。
 若松屋惣七は、さすがにお高のためによろこんで、すぐ江戸へ向かうようにせき立てた。おせい様といっしょに上方へ行けないのは残念でもあり、おせい様のことが気がかりでもあったが、しかし、歌子が同道するのだから、その点は心配しないでもよかった。
 お高は雑賀屋の久助に送られて、夜道をかけて小石川へ帰った。その足で金剛寺の洗耳房に一空さまを訪れると、出て来た一空さまは、しばらく会わなかった自分の娘を迎えるように上きげんだった。それはいつものことだが、この一空さまの態度には、吉報といったようなものを包んでいるところがあった。一空さまの細い眼が、奥へ引っ込んで見えなくなっていた。
「江戸一、いや、日本一の女分限者の御光来じゃな」一空さまは、剽軽《ひようきん》に頭をさげた。
「いやめでたいことじゃ。生きた証人が出て来ましたぞ。お前さまのことを、ようく知っておるのだ。おゆうさんと相良《さがら》うじが大阪に仮寓《かぐう》のころ、あんたに乳をふくませた乳母《うば》じゃとかいう。だいぶんおゆうさんの気に入りだったとみえて、柘植家のことにはかなり通じておるのみか、今もいうとおり、あ
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