っていた。しきりに、はっはっと息をして、草の中に顔をしずめた。
若松屋惣七が近づいてゆくと、もう一度|空手《からて》でおどりかかって来たが、からだが惣七に触れたかと思うと、磯五は、思いきりよく投げ出されて、土のうえに仰向けになった。それから、あたまをかかえて、寝返りをうつようにごろりと横になったきり、彼は肘《ひじ》のすきまからぼんやり若松屋惣七を見上げて黙っていた。妙に感心しているぐあいであった。
「何をそこで手荒なことをしているのだ――」
と、惣七に呼びかける声がして、武士とも町人とも思われない、十徳を着た若い男が、若松屋の屋敷のほうから金剛寺坂をおりて来て、加宮跡へはいって来ていた。きのう若松屋へ来て、滞在している、惣七の友だちの紙魚亭主人であった。
若松屋惣七は、磯五の短刀を抜き身のままふところへしまいこんで、まばゆそうな眼を、近づいて来ている紙魚亭主人へ向けていた。
二
四十七歳の越前守《えちぜんのかみ》大岡忠相《おおおかただすけ》は、あらたに目安箱を置き、新田《しんでん》取り立ての高札を立てなどして、江戸南町奉行としてめざましい活躍をしたときだった。
深川の世話役木場の甚の願訴によって、各町の自身番、会所、銭湯、髪結い床のような人眼の多い場所に貼り紙を許した。それは、柘植宗庵の娘おゆうの夫相良寛十郎の行方、またはその後の動静を知っているものがあったら、どんなことでもいいから木場の甚までしらせてくれば、厚く礼をするという文句であった。
磯五がこの貼り紙を見たのは、若松屋惣七に突っ放されて、逃げるように加宮跡から式部小路へ帰ろうとする途中、連雀町《れんじゃくちょう》の寄合所《よりあいじょ》でなにげなく立ちどまって読んだのであった。そこでは、通行人の眼にとまりやすい、往来に近いところに貼《は》ってあった。磯五は、柘植宗庵というのがお高の祖父で、おゆうが母であることも、父の名が相良寛十郎であったことも、いつかお高に聞いて知っていた。
磯五は、この貼り紙はいったい何であろう、きっと金のことにきまっている。いつかも雑司ヶ谷にいるお高のところへ一空という坊さまから手紙がきて、お高に、さっそくこの木場の甚に会うようにといって来たことがあるが、これは必ず同じ用向きに相違あるまいと思った。
磯五は、その足ですぐ深川|要橋《かなめばし》ぎわの吉永町に木場の甚をたずねた。そして、じぶんはお高の良人であると名乗って、それとなくすべてのことを聞き出したのだ。
柘植宗庵から娘のおゆうに譲られた莫大な財産が、いまお高のものになろうとしていること、おゆうの死後、良人の相良寛十郎とまた嬰児《あかご》だったお高の行動がはっきりしていないこと、ならびに深川の古石場で死んだ、お高の実父とばかり思いこんでいた相良寛十郎は、全く別人で、おゆうの夫、お高の父の相良寛十郎ではなかったことなどである。
木場の甚はお高が柘植家の当主であり、したがって、じぶんが預かってきている財産の受け取り人であることに、何らの疑いをはさんでいるのではなかったが、何しろ大きな額なので、奉行所のしらべに対しても、念には念を入れなければならないのだった。お高の出生や、ほんとの相良寛十郎のこと、偽の相良寛十郎のこと、それらをよく知っている者を探し出す必要があるのだった。
「わたしも、そう考えていたところです」
磯五がいうと、木場の甚は、あのお高が人妻であると前に聞いたことがあったかどうかと、忙しく考えながら、相槌《あいづち》を打った。
「そうですよ。お高さんが本人であることに違《ちげ》えはねえのです。わっしも、金剛寺の一空さまも、それはよくわかっているのですが、生きた証人がねえことには何も口をきくものがねえのです」
木場の甚は、磯五を慰めるような口調だ。磯五も、お高になり代わって、その証人の捜索を頼むようなことをいって、その日はそれで帰った。
磯五は、堀割りにそって、夕ぐれ近い熟した日光がぽかぽか当たっている深川の町をゆっくり歩きながら、からだ中の血が駈けまわるような気がした。あのお高が、とほうもない財産のあと取りになろうとしている、それは、この陽の光のように確かな事実なのだ。お高、じぶんの妻のお高は江戸で一、二の女分限者だったのだ。
すると磯五は、お高がもう自分の妻でなくなっていることに気がついて今度は、全身に血が凍るように感じた。あの縁切り状を書くのがもう一日おそければよかったのだ。何とかしなければならない。磯五は、なにかに追い立てられるように、せかせか歩き出していた。
三
お高は、雑司ヶ谷の雑賀屋の寮へ帰って来ていた。そのお高を見舞いに、若松屋惣七と、紙魚亭主人と歌子とが江戸から遊びに来ているのだ。
いつか、この一行に、大久保の奥様という人を加えて、片瀬の龍口寺へお詣りして、ついでに江の島を見物するはずだったけれど、待っていても、大久保の奥様の病気がよくならないし、そこへ紙魚亭主人が出府してきたので、急に三人で、雑司ヶ谷のおせい様の家《うち》にいるお高を訪れることになったのだ。
陽ざかりの庭に、松の影が人かげのように見えていた。芝が、南蛮の敷き物のように青く、そこここに置いてある石は、かわいて白かった。座敷の縁に、庭から来て腰かけて、歌子は、そばに立っている紙魚亭主人と話していた。歌子は、いつもの簡粗な着物を着て、陽やけのした顔を仰向かせて笑っていた。紙魚亭は、松葉をくわえてしきりにかみながら、歌子を見おろしていた。
歌子がいっていた。歌子は若松屋惣七のことをあに様と呼んでいた。
「あに様は、あのお高さんという人を想っているのでございます。でも、むりもございませんよねえ。お高さんはあんなにきれいな、気だてのいい人で、かわいそうな目にあいなすったのですものねえ。今でも、いっしょになっているようなものでしょうけれど、ほんとに家《うち》へ入れてあげたいと思いますよ」
歌子は、もっと何かいいそうにして、口をつぐんだ。樹立ちの蔭から、若松屋惣七とお高が現われて、庭のむこうを歩いているのが見えて、こっちが黙りこんで静かにしていると、風のぐあいで二人の話し声が聞こえてきた。
「高、歩いておると疲れはせぬかな」
「いいえ、ちっとも、疲れませんでございますよ」
歌子と紙魚亭主人は、ちらと顔を見合わせて笑った。そして、ふたりは、両方からすこしずつ近づきあって、また、聞くともなしに、向こうから風に乗って流れてくる若松屋惣七とお高の話に耳をやった。
「陽にやけぬよう、木の下をあるいてはどうじゃ」
「はい。でも、日向《ひなた》のほうがあたたこうございますから」
「からだのぐあいはどうだな」
「はい。大変よろしゅうございます」
「高、お前はもう若松屋の仕事へは帰らぬ。帰りとうない。というようなことを申しておるそうだが、ほんとうか」
「――」
「黙っておってはわからぬ、ほんとうに若松屋へ帰らぬつもりか」
「はい。わがままのようでございますが、そのほうが旦那様のためにもわたくしのためにもよろしいように思われますでございます」
「どうしてだ」
とききながら、若松屋惣七は、加宮跡で磯五に斬りつけられたことや、そのとき磯五がいった、お高がおせい様の証文を持って来て、交換に、離縁状を取って行ったということやなどを確かめてみようかとも思ったが、それは、お高の気もちがもっとわかるまでいわないことにした。
しかし、証文を破いている磯五を、お高が、磯五がじぶんにしたように打って、そこは、お高が自分の仕返しをしてくれた形になっているのが、若松屋惣七は、愉快だった。で、お高を見ている彼の顔に、微笑がひろがった。
が、お高は磯五から縁切り状を取って、晴れてじぶんのところへ来られるからだになっているのに、そして、そうでなくても、どうしても自分のところへ来なければならない事情が、お高のからだにできているのに、なぜ今になってこんなことをいい出すのだろうと、すぐ暗い表情になった。
若松屋惣七は、佐吉だったか滝蔵だったか、金剛寺の一空さまからふと聞いてきた、お高に家を継ぐ金がはいろうとしているという、夢のような話を思い出して、それが、若松屋惣七をにっこりさせた。
「お前は近くたいそうな金持ちになるという評判だが、それで、もう若松屋へ帰らぬ決心をしたというわけかな」
「いいえ、そんなことはございません。お金持ちなどと、考えてもいやでございます。それも、いろんなむずかしいことがございまして、証人がいるとか何だとか、くさくさすることばかりでございます。お金も、くるかこないか、当てにならないのでございますよ」
「では、どうするつもりなのだ」
「どうするつもりって、何も考えておりませんでございます」
「その金が手にはいれば、一生食うに困らんというわけだな」
「はい」
「なぜもっと詳しく話してくれんのだ」
お高は、まだ決まりもしない財産のことを話すのがいやであった。気恥ずかしかった。話すのはいいが、財産がこなかった場合のことを考えると、うれしがっていてはずれたように思われるのが、たまらなかった。また、まだ手にしないうちから話しても、誰も信じてくれる人がないようにも思えた。彼女じしんまだぴったりと現実のものに考えられないことを、どうして人に、夢でないように伝えることができるであろうかとあやぶまれた。
で、いっさい黙っていることにしたのだが、若松屋惣七にだけは、だいたい話しておきたいような気もしたけれど、しかし、同じ理由からやはり黙っていることにした。
「いったい、いつはっきりわかるのか」
若松屋惣七が、馬鹿々々しそうにきいた。お高も、馬鹿々々しいような気がして、笑い出してしまった。
「まだ当分かかるようでございますよ」
「そうだろう。十年や二十年はかかるだろう」
若松屋惣七は、苦々しそうにいって、ぷいと横を向いた。若松屋惣七が不きげんになると、お高はやはり悲しい感じがした。
黄金《こがね》への道
一
「ふうむ、その財産とやらを、わしに保管させてはくれぬかな」
若松屋惣七が、ちらと眼をいたずらめかしてそういうと、お高は、袂を顔へ持って行って笑うのだ。
「そんなことをおっしゃっても、わたくしのもののようで、まだわたくしのものではございませんもの。母の代からの世話人で深川の木場の甚という人が預かっていてくれるのでございます」
それから二人は、まだ長いあいだ、磯五のことなど話し合って、肩をならべて寮の母屋《おもや》のほうへ引っ返して来た。若松屋惣七は、ふたりの将来について、何かいいたそうにして何もいわないのだ。お高のからだのぐあいをききかけて、それも若松屋惣七は黙りこんだ。二人とも、もう磯五とは関係がないと思っているので、そのことでは気が軽かった。
若松屋惣七がいった。
「どうも高はおれをおそれておるようだが、何もおそれることはないぞ。おれにしろ、お前にしろ、他人の迷惑にならぬ限り、おのが思うとおり暮らしてゆけばよいのだ」
お高は、自分でもわけのわからない涙が出てきていた。お高は、縁のあけ放してある座敷のほうへ近づいていたので、いそいでなみだをふいた。そのお高の眼に、袖垣《そでがき》を越して映ったものは、門からはいってくる磯五の姿であった。
おせい様とああいうことになり、自分ともこうなっている磯五が、どうしてのめのめ[#「のめのめ」に傍点]とこの雑司ヶ谷へ来ているのだろう? お高は、それが不思議なようで不思議でない気がした。それよりも、すぐおせい様のことが気づかわれた。磯五に対する若松屋惣七の憎悪も、この場合、心配であった。
「五兵衛さんが来ているようですけれど、どうぞ手荒なことはなさらないでくださいまし。おせい様を苦しめるようなものでございますから」
お高がささやくと、若松屋惣七の小鼻に皺が寄った。
「心配いたすな。どうしようともせぬ。が、おせい様は気の毒じゃな。悪いやつとはわかっても、まださっぱりあきらめきれずにおるのだろ
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