して、狂暴な気もちのうちにはかないものを感じながら、ゆがんだ笑いでいった。
「よく来たな。ずいぶんこっぴどくやっつけやがったぜ」

      四

「お前さまはあのくらいいわなければ性根へ通じませんのですよ」
「御挨拶だな」
「きょう用があって来たのですよ」
「ずっと雑司ヶ谷にいるはずじゃあなかったのか」
「いるはずだって、用があれは出て参りますでございますよ。このことでお眼にかかりに来たのです」
 お高は、手の、小さな風呂敷包みをあけた。それはおせい様が若松屋惣七から資本を取って磯五へまわしたときに、磯五が、おせい様がいらないというのに、堅いところをみせようために、むり押しつけに入れておいた借用|申候《もうしそうろう》一札之事《いっさつのこと》という証文であった。
 そのほか、磯五は、おせい様から大小何口となく金子《きんす》の融通を受けているのだが、そのたびに、おせい様はそんな水くさいことは不用だというのに、自分から進んで、何の仲でもこれだけは別である、きまるところだけはきちん[#「きちん」に傍点]ときまらなければ、乱れて面白くないなんぞといって、借用証文を納めてきたのだった。
 それをそっくりまとめてお高が持って来ているのだから、磯五は、これは何のことであろうと顔色が変わった。
「お前さまの証文をみんな持って来ましたよ。おせい様がわたくしにすっかりお任《まか》せなすったのですよ」
「それでわざわざ持って来てくれたのか。すまなかったな。なに、それには及ばねえのだよ。そんなもの、おせい様の気を悪くしてまで、おれから頼んで入れておいた証文なのだから、反古《ほご》同然なのだ。口をきく証文ではねえのだから――」
「おや、そうですかねえ。でも、見たところ立派な証文でございますよねえ」
「よこせ。破いてしまうのだ」
「いけませんよ」お高は、ちょっと磯五から離れて、証文の束を両手で握りしめた。「おせい様が相手ではありませんよ。わたしが相手なのですよ」
「それはお高、いってえ何のことだ」
「おせい様に代わって、わたしが、あなたにこの証文の片をつけてもらうのですよ。どこへ出しても、誰に見せても、このとおりちゃん[#「ちゃん」に傍点]とした証文でございますからねえ。はっきりした話ではございませんか。これだけおせい様からお前さまへまわしてあるお金を、わたしに返していただきたいのですよ」
「だが、しかし、それは、おせい様は、きれいに忘れるといったのだぜ」
「おせい様は忘れても、わたしは忘れませんよ。わたしが忘れても、証文は忘れませんよ」
「どうしろというのだ」
「おせい様から出ているお金を、ここへならべて返してくださいよ」
「そんなことができるか。あの金をみんな返せば、磯屋の店は半つぶれだ」
「返せないというのでありますわねえ」
「当たり前《めえ》よ」
「そんならお金を返さなくていいから、その代わり離縁状を書いてくださいよ。離縁状と引き換えに、この証文をそちらへ上げましょうよ」
「ふむ。おめえのねらって来たのは、はじめから金じゃあなくて、その三行半《みくだりはん》なのだな。そうわかれあ書かねえ。書くもんか。おいらとおめえは、どこまで行っても夫婦なのだ。もう、おせい様にもお駒にも、何の隠し立てもいらねえのだぜ」
 磯五が、眼にとろり[#「とろり」に傍点]とした力をこめて、お高の顔をのぞきこむと、お高は、くらくらとしてそれにひき寄せられそうに見えたが、はっと気がついたように背後《うしろ》へさがった。磯五は、長い、睫毛《まつげ》を伏せて、小高いお高の膝がじわじわと動くのをみつめていた。
「さあ、書いてくださいよ」
 磯五は、黙っていた。黙ったまま、そっと眼を動かして、お高の手もとの証文の束をうかがった。やにわに、む! と小さくうめいて、獣のようにとびかかった。

      五

 お高は、子供が引っくり返るように、思い切りよく引っくり返っていた。磯五は、からだいっぱいにお高を押し倒して、証文をつかんだ。が、磯五の目的は、証文ばかりでないようで、証文を握っても、お高のうえをどこうとしなかったから、お高は真剣に狼狽した。
「いけません! 声を立てますよ」
 お高が大きな息を吸うと、磯五のにおいが鼻の奥までしみこんできて、お高は、ちょっとうっとりしそうになった。自分をしかって、どさどさもがいていると、磯五はあきらめて、たち上がった。着物を直しながら、すっぱそうな笑いを落とした。
「冗談だ――」
「冗談でも、いけませんよ」
 お高も、そこここ乱れたところをつくろっていた。磯五をそんなに近く感じたことがきまりが悪くて、顔が上げられない気もちだった。その膝の上へ、磯五の手から証文の束が投げ返された。
「冗談だ。こんなものはいらねえや」
「いらなければなお縁切り状を書いてくださいよ」
「よし。書いてやろう。が、高音、いま一度、考え直してみねえか」
「考え直すことはありませんよ。お前さまはわたしにとって、死んだ人ですからねえ」
「ここでおれと別れてどうしようというのだ。あの盲野郎のところへでも納まる気かい」
「そんなことは大きにお世話さまですよ。わたしはきれいにお前さまの女房でなくなって、自分の思うとおり、自ままにやってみたいのですよ」
「それもよかろう」
「そんなら、書いてくれますねえ」
「書きせえすれあいいのだろう」
「そうですよ。書きさえすれば、この証文をすっかりあなたに破かせてあげますよ」
「なに、破こうと思えば、いまふん[#「ふん」に傍点]だくったときに破くことができたのだ。もう一度ふんだくって、破いてもいいのだ。破いてしまえあ、それまでじゃあねえか」
「それはそうですよ。ではなぜ取り上げて破かないのですか」
「そこが磯五様のお情けというものだ」
「また何か悪だくみがあるのでございましょう。構いませんから早く離縁状を書いて、証文を取っかえっこしましょうよ」
 磯五はさらさらと一札したためて、名前のところへ印形を押した。そして、お高に渡すにつけて証人がいるといって、お駒ちゃんを呼びこんだ。
 お駒ちゃんは、まだ泣いていたとみえて、眼を真っ赤にして、白粉《おしろい》のはげた顔のまま出て来てすわった。お駒ちゃんは、磯五とお高が正式に夫婦別れをする、その証人だと聞かされても、きょとんとして二人をながめているだけだった。手を重ねて、不思議そうにふたりのすることを見物していた。
 離縁状と交換に磯五の手に証文の束が渡されると、磯五は、にやにやしながら、それを片ッ端から丹念《たんねん》に破きはじめた。
 お高は、突ったっていた。ふらふらと磯五のほうへ泳いで行った。磯五が、何だ? という顔を上げたとき、その頬へ、お高の第一の拳が飛んで行った。
「何をするのだ」
「何をするも、かにをするもありませんよ。いつか若松屋惣七さまがわたしの証文を破いたとき、お前さまは若松屋惣七さまをあんなにおぶちになったではありませんか」
「うむ、そうか。それでいまおれを殴《なぐ》るのか」
 お高の白い握りこぶしが、弱々しい弧《ゆみ》を描いて磯五の面上に降りつづけた。お高は、泣いていた。すすり泣きながら、一つ二つと数えるように磯五をぶっていた。磯五は、じっとすわって殴られていた。しずかに証文を破いていた。
「ちっとも痛くないぜ」と、いった。
 やぶいた証文をほうり上げたので、小さな紙片が、吹雪ぢりに散った。
 何か恐ろしくなったお高が、いそいで部屋を出ようとすると、黙って見ていたお駒ちゃんがすがりついて来た。お駒ちゃんは、磯五の復讐《ふくしゅう》のためにお高に食ってかかろうとしたのであった。が、すぐ泣きくずれて、お高に、磯五のことをかきくどき出した。お高は茫然《ぼうぜん》として、お駒ちゃんの項《うなじ》がふるえるのを見おろしていた。
 ふたりの女をそのままにして、磯五は、血相変えて式部小路の店を出ていった。出かけに磯五は、居間の欄間にかかっている額の背後《うしろ》から短刀を取って、油がきいているので鞘《さや》がすべりあかないように、手ぬぐいに包んで懐中した。
 すっかり緑いろの顔色になった磯五が、小石川の金剛寺坂へ急いで、若松屋の屋敷のある坂の中途にさしかかったところに、そこに、草のはえている広っぱがあって、付近の人が加宮跡《かみやあと》と呼んでいた。雑草を杖《つえ》で分けて歩いて来る人影は、若松屋惣七であった。磯五は、つかつかと前へ進んで立った。


    日向《ひなた》の庭


      一

 加宮跡の雑草を踏んで、磯五は、若松屋惣七の眼前へ押しかかって行った。右手をふところへ入れているのは、中で、匕首《あいくち》を包んである手ぬぐいをほどいているのだ。若松屋惣七が、よく見えない眼をまばたいて、それが磯屋五兵衛であることに気がつくまでには、ちょっと間があった。
「何しに来たのだ」若松屋惣七は、歯のあいだからうめいた。
「お高は、おらんぞ」
「お高に用があって来たんじゃあねえ。おめえに用があって来たのだ」
 磯五は、そういって、懐中で短刀の柄を握りしめた。九寸五分の柄は、鮫《さめ》の皮に金の留釘《とめくぎ》を打った、由緒《ゆいしょ》ある古物であった。鮫皮の膚ざわりが、冷たくこころよかった。それは、お高の持ちものであったのを、いつからともなく磯五がもっているのだった。麻布十番の馬場やしきの家《うち》へ、お高を置きざりにして京阪《かみがた》へ行くときに持って出たものらしいが、磯五にしても、はっきりしないのだった。
「ふうむ、わしに用というのは」のんびりした声で、若松屋惣七がいっていた。「どういう用かな」
「おめえは、おいらの女房を横どりする気なのだろう。お高をそそのかして、おせい様の証文を持って来させて、それと引き換えに縁切り状を取らせたのは、みんな若松屋の細工だろう。お高は、いつかおれがおめえにしたように、おれにその証文を破かせて、かわりに、おいらのこの面へ手を当てたのだ」
「それは、それは、近ごろ大できでござった」
 若松屋惣七が、しんから愉快そうに笑い出すと、磯五は、野犬がほえるようにわめいて、いきなり、若松屋惣七へ斬《き》りつけていった。が、若松屋惣七は、今でこそ金勘定の町人だが、武家出で、しかも若いころは剣道の達人であった。星影一刀流に落葉《おちば》返しの構えという一手を加えた名誉でさえあった。
 磯五は、それを知らないから切りかかっていったのだが、若松屋惣七は、驚かないのだ。半ば盲目《めくら》だけれど、剣気だけは不思議とはっきり感じ、白刃のしごきは、心眼が見えるのである。一度眼で見たものを脳へ伝えるのではなく若松屋惣七のは、直接あたまで知るのだから、若松屋惣七のほうが、普通人より秒刻早いのだ。
 磯五が、女のように白い腕をふって斬りこんで行ったとき、若松屋惣七は履物《はきもの》を脱ぎすててうしろに飛びさがっていた。同時に、手にしていた自物木《しぶつぼく》の杖を青眼にとって、にやにや笑っていた。そして、
「あぶない、あぶない」
 といった。
 それは、磯五のことをあぶないといったのか、自分のことをあぶないといったのか、磯五にはわからなかったが、仕損じたことだけは確かなので、磯五はいらだった。
 すぐ追い迫ろうとしたけれど、鼻の前へ来て生き物のようにびくびく微動している杖の先が、ひどく邪魔になった。その一本の曲がり木が、磯五には、巾《はば》の広い板のように見えて、若松屋惣七のすがたが隠れてしまうような気がした。その向こうに、蒼い若松屋惣七の顔がほほえんでいた。髪に引きつられたこめかみに太い筋がはっているのが、不思議に、磯五にはっきり見えた。
 人が来てはだめだと気がついて、磯五は、片手で杖をつかんで、今度はしゃにむに突いて行った。しかし棒をつかもうとすると、その棒が激墜してきて、磯五のききうでを強打した。磯五は、その腕を抱きこむようにして、地べたにころがっていた。
 短刀が、若松屋惣七のあしもとへ飛んで行って、若松屋惣七に拾われた。磯五は、腕《て》の苦痛を訴えて、うな
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