くちびるをかんで、思わず、ほそくうめいていた。無意識のうちに、決然とした態度になっていた。彫り物のように硬直したお高だ。
「わたくしはもうあなた様をおたぶらかし申すことはできません。わたくしは、磯屋の家内でございます」


    白い拳《こぶし》


      一

 お高が、自分は磯五の女房であるとおせい様に打ち明けると、おせい様は、初めはほんとにしなかった。おせい様は、すわったまま、がっくりくずれて、真っ赤な顔になった。それから其っ蒼な顔になった。お高は、今までおせい様をあざむいていたことを詫びたが、おせい様は、そんなことはどうでもいいのだった。すっかり打ちのめされて、迷児《まいご》のようになったおせい様であった。
 お高は、大阪の若竹の一件をも話してやった。するとおせい様は、磯五の側にまわって、何やかやと磯五のために弁解しようとするのだ。お高がいっそう口をきわめて、磯五がうそつきであること、女たらしであること、金のほかに生きる目的のない人間であることなどをいい立てると、おせい様は、洗われたように白い顔だ。なみだを浮かべていうのだ。
「わたくしは、みんなに蔭《かげ》で嗤《わら》われてきたのでございますよねえ」
「善人はみんな蔭で人に嗤われるものでございますよ。それでよいのでございますよ」
 そこへ縁に影がさして、人がはいって来た。それは磯五であった。磯五は、女中が金魚売りから金魚を買ったといって、それを見に来ないかとおせい様を呼びに来たのであった。おせい様は、びくっとおびえたように黙っていた。お高が、大きな声でいった。
「わたくしですよ。お高でございますよ。また参りました。いまおせい様に、お前さんがあたくしの良人になっているとお話ししたところですよ」
 おせい様は、じっと磯五を見上げた。磯五は、ちらっと二人の女の顔を見くらべて、にッと笑った。そしてふたりのあいだに割りこむようにすわった。お高が、同じことばを繰り返すと、磯五は、声をたてて笑った。笑いの途中で、おせい様の声がした。
「笑うことはございませんよ。何かおっしゃることはないのでございますか」
「何もありません。このお高のいるところでは、なにをいうのもいやなのです。おせい様一人にゆっくりお話ししてえのですよ」
 おせい様は、座をはずしてくれというようにお高を見たが、おせい様と磯五と相対ずくになれば、またおせい様が磯五の弁巧にだまされるにきまっているから、お高は、わざと知らぬ顔をして動かなかった。
 そのうちにおせい様に問い詰められて、磯五は、曖昧《あいまい》に事実を承認したような、しないような口ぶりをとったので今度は、おせい様のまえで、名ばかりの夫婦のあいだの口論になった。お高は、それをいやだと思ったが、磯五にいい負かされるのはなおいやであった。
 磯五のいうのは、夫婦であることはほんとうだけれど、夫婦であって、こうして夫婦でない生活をしているのは、すべてお高が悪いからで、だから、つまり夫婦ではないというようなことだった。この黒を白といいくるめようとするようないい草が、磯五の口から出てくると不思議に道筋立って聞こえて、どうかすると、お高が受け太刀《だち》になるようなぐあいであった。お高は、くやしくなって、半ば泣きながら部屋を出てしまった。
 あとで磯五は、舌に油をくれて一切の間違いをお高にかぶせようとしたが、おせい様は、もうすっかり眼がさめていた。磯屋につぎこんだ金はつぎこんだ金として、これできれいに別れようではないかといい出した。磯五はお高のほうが勝手なことをして逃げたのだといい張って、自分は、お高の生きていることを知らなかっただけだから、べつにおせい様をだましたわけではないと、美しい顔にあらん限りの魅力を見せてもう一度おせい様をごまかそうと努力した。
 おせい様は、うっかりそれに釣り込まれて信じようとしたが、すぐに思い返して、
「とにかく、この家《うち》を出て行っていただきましょうよ。あなたのようなお人は見るのもいやでございますよ」
 磯五は、にこにこしていた。
「そうですか。それで、お高はどうするのですか」
「お高さんはわたしのお友だちですもの、当分ここに遊んでいてもらうつもりですよ」
 立ち上がりながら、磯五がいった。
「いや、何といっても、あれはわっしの家内ですからやはりいっしょになりましょう。それが一番いいのです。そうして今度は、仲よくやってゆきましょう。どう考えてもこれが穏当ですよ」
 それは、おせい様にとって、このうえない残酷なことばであった。磯五は、そこをねらって射ったようなものであった。磯五は、おせい様が泣き出しそうな顔になるのをちょっと見て、にっこりして座敷を出て行った。
 おせい様は、あんな男に、自分のすべてをやったのだと思って、ひとりで泣いた。しかしそれは、何だか色悪《いろあく》に引っかかったのがうれしくて泣いているような気がした。泣きながら、磯五とお高がまたいっしょになるだろうかとおもうと、嫉妬が芽ばんでくるのを押え得なかった。
 秋のつぎには、冬がくるのだ。そして、それでおしまいなのだ。おせい様の冬には、春が待っていないのだ。おせい様は、また肩をふるわせて泣いた。泣くために泣くような泣き方であった。自分でもそう思って、いっそう激しく泣いた。

      二

 あくる朝早く、磯五は江戸へ帰った。駕籠が動き出しても、おせい様もお高も顔を見せなかった。磯五はかえって気楽な気もちだった。気楽な気もちは、ほかにも二つあった。一つは、おせい様が、磯屋の商売へ融通した金子《きんす》を忘れてやるといったことであった。これがいちばんうれしかった。もう一つは、おせい様のほうがこうなってしまえば、もう贋《にせ》の妹などはいらないのだから、お駒ちゃんをお払い箱にしていいことであった。
 磯五は、軽い心もちではあったが、しゃくにはさわっていた。おせい様をたぶらかしつづけて、もっと金を吐き出させることができたのに、途中から邪魔《じゃま》がはいって計画がこわれたのが残念であった。が、取るものは十分取ったのだし、考えてみれば、惜しくもないおせい様なのだ。磯屋の店は、もう基礎《いしずえ》がしっかりすわっていて、大丈夫だ。
 磯五は、駕籠に揺られながら、若い女《もの》のようにはゆかないおせい様のからだを思い出して、きたないお勤めが済んだように、駕籠のそとの地面へぺっぺっと唾《つば》を吐いた。
 式部小路の店へ着いて、すぐお駒ちゃんを呼ぼうとしたが、お駒ちゃんは留守であった。先日からお針頭に住みこんでいるおしんが来て、芝《しば》と神田の祭礼で大口の注文があったと告げたので、磯五はますます上きげんになった。
「それでは、いつぞやの染めのこともあるし、私は一両日中に発足して、ちょっと京表のほうへ行って来ようと思うが――」
 いっているところへ、お駒ちゃんが帰って来たとみえて、店のほうできいきいいう声が聞こえた。果たしてお駒ちゃんであった。お駒ちゃんは、流行《はやり》の派手な衣裳を着けて、のぼせて、真っ赤な顔をして、磯五のいる奥の小座敷へはいって来た。今までふざけ散らして来たとみえて、眼がうるんで光っていた。
 磯五は、苦い顔になって、すぐいった。
「おめえに眼をかけてくださる大家《おおや》の坊っちゃんてえのは誰だ」
「大家なんかと町人みたいにいわれちゃお刀が泣くよ」お駒ちゃんは、威勢よく答えかけたが、気がついて、びっくりした。「おや、いやだねえお前さん、どうしてそんなことを知っているの?」
「どうして知っていようと、大きにお世話だ。何でも知っているのだ。そうか、さむれえか」
「さむれえもさむれえ、梅舎錦之助《うめのやきんのすけ》さまとおっしゃって、れっきとしたお旗本の御次男ですよ」
「芸人みてえな名だな」
「芸人みたいな名でも芸人ではないのですよ」
「部屋住みか」
「部屋住みだっていいのですよ」
「いくら部屋住みでも、料理人《いたまえ》の娘っ子を相手に、色の恋のとぬかしていると知ったら、さぞ喜ぶだろうなあ。おめえは下女奉公か、おででこ芝居にでも出ていりゃあちょうどいいのだ」
 お駒ちゃんはたちまち紙のように白くなったが、久助とじぶんとのつながりがすっかり知れているらしいのであきらめて、ただもし磯五がその梅舎錦之助に、お駒が料理番の娘であることをばらすなら、じぶんはおせい様のところへ走って、磯五が、妹でも何でもない自分を妹に仕立てて、おせい様をだましていたことを打ちあけるとおどかすと、磯五が平気で、おせい様とのあいだはもうこわれてしまっているから、そんなことはどうでもいいというので、お駒ちゃんは、泣き出した。

      三

 お駒ちゃんはうれし泣きに、泪《なみだ》を流しているのだ。梅舎錦之助のことなどはけろりと忘れて、磯五がおせい様と別れれば、あとは自由に、自分といつかの約束どおりにいっしょになれるだろうというのだ。いつ晴れて夫婦になってくれるかとお駒ちゃんは、磯五にきいた。磯五は、笑い出していた。
「お駒ちゃん、おめえはいってえ何をいっているのだ」
「まあ! この人は。あれほどはっきり何度も何度も約束したくせに。その約束で、こういうことになったんじゃないか。まさかお前さんは、今になって白《しら》を切るつもりじゃあないだろうねえ」
 お駒ちゃんは、とっさに悲しみに沈んでいた。その悲しみは、女として真剣なものだったので、お駒ちゃんは、急に崇高に見えてきた。磯五は、お駒ちゃんの蒼い顔と、おろおろと開かれた両眼に見入って、そこに避けられない近い将来の紛擾《ふんじょう》を読み取っていた。そして、女とのあいだのこういう非常時に処する彼一流の機敏な考えから、平然といい出していた。
「おめえに隠しておくのはよくねえ。すっぱりいってしまおう。おいらはおめえと夫婦《いっしょ》になるわけにはいかねえのだ」
 そして、女房があるのだと打ち明けると、お駒ちゃんはなかなか信じなかったが、だんだん事実《ほんとう》とわかって身をふるわせて泣き伏してしまった。お駒ちゃんはまじめに磯五のことを思っていたのだ。お駒ちゃんとしては珍しい感情だった。それがこんなことになってもう生きている甲斐《かい》もないといった。
 磯五は、それを慰めるように、梅舎錦之助を持ち出して、その人といっしょになったらいいじゃないかといったが、お駒ちゃんは承知しなかった。磯五は、さらに笑いたいのを押えて、お駒ちゃんの肩にやさしく手を置いた。
「おいらの妹になりすましていたから、その立派なお侍とも近づきになれたんじゃねえか」
「いやだよ。勝手なことをいうもんじゃあないよ。さんざん人を玩具《おもちゃ》にしておいて、きっとこの仕返しをするから――」
 磯五はやっとお駒ちゃんをしずめて、お駒ちゃんが久助の娘であって、したがって磯五の妹でないことは、当分隠しておいたほうが、お駒ちゃんのためにいいだろう。そんなことが知れては梅舎錦之助の手前も面白くないだろうから、まあいつまでもおれの妹になっているがいいと安心させるようにいったが、お駒ちゃんは、そんなことはもうどうでもよかった。きっとこの仕返しをするからと何度もひとり言をつづけていた。
 が、そのうちにうまいように磯五に丸められて、無意識のうちに、お駒ちゃんの悲嘆と怒りがおいおい消えつつあるとき、小僧に案内されてお高がはいって来た。
 磯五は、そのほうがかえっていいと思って、実はこの従妹といっていたのが家内なのだとお駒ちゃんにいった。お駒ちゃんはあきれ返って、かんかんに怒って、お高と磯五にくってかかろうとしたが、磯五になだめられて、しおしお自分の部屋へ帰って行った。
 お高は、磯五が雑司ヶ谷の雑賀屋の寮を出るとすぐ、あとを追うように江戸に帰って来たものに相違なかった。小さな風呂敷《ふろしき》包みを持って、きちんと磯五の前にすわった。磯五は、そのお高をこのうえなく美しいと思った。蒼い顔に、深い眼をしていた。小さな口が、ぬれて、こころもちふるえていた。磯五は、その口の感触を思い出
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