って行こうとしたが、まわりに人のいないのを確かめると、彼はつと玄関わきの植え込みへ身をひそませて、損じないように注意ぶかく封書の封を切って読みはじめた。そこには、数株の金雀枝《えにしだ》がいっぱい花をつけて、紙面と磯五の顔とに黄いろく照りはえていた。
 磯五は、二、三度読み返した。が、何のことかわからなかった。
 ただ、木場の甚というのは誰であろうと思って、急用とあるのは、金のことではあるまいかと、一流の直感で、しきりにそんな気がした。小判は磯五のたましいなので、金のためには、どんなにでも強くなれる磯五なのだ。黄金《こがね》いろの神像のほか、磯五は神も仏も知らないのだ。したがって遠くから金のにおいをかぎつけるのに、異常に発達した神経をもち合わせてもいた。
 磯五はいま、何となくその金のにおいをかいだような気がして、粒のそろった白い歯で紅い下くちびるをかんで真剣な顔つきになった。そして、封書をもとどおりにして、家へ持ってはいって、出会った女中の一人にお高のところへ届けさせた。
 それから、自分が寝起きしている客間の渡り廊下が鍵《かぎ》の手についている部屋へ行って、磯五が仰向けに寝ころがって、いまお高へきた手紙は何のことであろう? お高は、あれにあるとおり、すぐ江戸へ帰るであろうか。天井板をにらんで考えているところへ、おせい様についてこっちへ来ている、お駒ちゃんの父親の板の久助が、盆に茶碗をのせてはいって来た。
「磯屋さま、お出初《でばな》を一つ――」
 磯五は、むっくり起き上がって茶をすすりながら、
「久助どんかい。おめえの奉公ぶりには、おせい様も感心していなすったよ。久助どんは、今じゃあ一番のお気に入りなのだ。まあ、ますますためを思って勤めてもらいてえ」
 久助は、主人でもない磯五にそんなことをいわれて煙たそうに敷居ぎわにうずくまった。もじもじしていたが、やがてきいた。
「お妹さんは、このごろいかがでございますか」
 自分の娘が、磯五の妹ということになっているので、久助は、皮肉な眼をかがやかして、磯五を見た。磯五は、そんなことは知らないし、急に妹などといわれたので、瞬間誰のことであろうと、不思議そうに考えた。が、すぐ、それはお駒ちゃんであったと気がついて、
「おう、そういえば、拝領町屋で、おめえがはじめてうまいものを食わせてくれたときに、お駒も相伴《しょうばん》して行っていて、気分が悪くなって中座したことがあったげな。なに、このごろは達者さ。式部小路の家に、ぴんしゃんして働いているよ」
「さようですかい。それは結構でございます」
 久助は、こころから安心したように、そういって立って行った。そのうしろ姿を見送って、磯五は、何だか気の許せないおやじだと思って、近いうちに、おせい様を焚《た》きつけてこの久助を追い出すことにしたほうが、今後のためによくはないだろうかと考えた。久助を警戒する気もちが、急に地水《じみず》のように、つめたく磯五の胸にわきかけたのだ。

      六

 が、久助がお駒ちゃんの父親であることは、磯五にすぐわかってしまったのだ。
 妻となっている高音と、絞れるだけさんざん絞っている後家さんのおせい様とが、こうして一つ屋根の下にいて、だんだん親しくなりつつあることは、両方から両方へ好ましくないことが伝わりそうで、磯五は、いてもたってもいられない気がするのだ。
 で、久助が立ち去って行ったあと、磯五がもう一度、手まくらで横になろうとすると、その膝の近くに一通の書面が落ちているのだ。これは、いま久助が落として、気がつかずに行ったものに相違ない。それが、庭からの微風に吹かれて磯五のほうへ寄ってきたのだろう。何の気なく取り上げた磯五は、それがお駒より父さまへとしたものだったので、びっくりしたのだ。
 手紙には、お駒ちゃん一流のたどたどしい字で、次つぎに磯五を驚かせるに足ることが書かれてあった。あのお駒ちゃんは、この久助の娘だったのだ。
 お駒ちゃんは磯五を想っているばかりでなく、磯五もお駒ちゃんに約束して、ふたりは夫婦になることになっているというのだ。磯五は、おせい様から金をとるために、じぶんを妹に仕立てておせい様をいいようにしているものの、もしおせい様と深くなるようなことがあったらおせい様の家にいて、磯五との関係をみている久助が、気をつけて、いちいちしらせてくれという文面だ。磯五がおせい様といっしょになるようなことがあれば、じぶんは死ぬよりほかはない。そうも書いてあった。
 かと思うとそのあとへ、磯五には内証だが、田舎《いなか》の金持ちの息子という新しい情夫《おとこ》ができて、よろしくやっているというような文句もつけ足してあるのだ。
 磯五は、意外な引っかかりにおどろいて、じぶんの身辺が音をたててくずれてゆくような気がした。深夜のように暗い顔になって、手紙をふところへ呑んだ。が久助は、手紙を落としたことに気がつくと、こっそりこの部屋へ探しに来るに相違ないのだ。そのとき、じぶんがすべて読んだことをさとらせてやろうと思って、磯五は、また手紙を取り出して、わざと広げたまま、その座敷へ置き放しにして廊下へ出た。
 それは、お駒ちゃんが、拝領町屋のほうへよこしたものらしいのだ。使い屋が持って来たのだろう――磯五は、そう考えて、それにしても、お駒と久助が父娘《おやこ》であろうとは! 全く世の中は、広いようで狭いものだと、感心と戦慄《せんりつ》をちゃんぽんにしたような心状で、いそがしく対応策をめぐらしながら縁側を歩いて行くと、むこうからおせい様が来るのに会ったのだ。
「お従妹さんはぐっすり眠《やす》んでいられますよ」おせい様は、にこにこして、先に立って、そばの座敷へはいって行ってすわった。磯五もつづいた。おせい様は年齢《とし》には見えないあどけない顔を上げて、磯五を見ていた。「お医者におみせしたら、だいぶからだが弱っているから、要心をしないとあぶないとおっしゃいましたよ」
 おせい様は、急に心配そうにいったが、磯五は、ほかのことを考えてるのだ。
「おせい様、わたしは久助の庖丁《ほうちょう》が大好きなのです。ねえ、おせい様、あいつを磯屋の料理人《いたば》によこしてくれませんかねえ」
「まあ、藪から棒に。でも、よろしゅうございますとも、そうなれば、久助も大喜びでございましょうよ」
「まだ本人にきいてはみないのですが――」
「ほんとに、お店のほうへおつれなさいましよ。そして」おせい様は、赧くなって、ためらった。「わたしたちがいっしょになるようなことになったら、また二人で使いましょうよ」
 磯五は、白い花が咲くようににっこりして、おせい様の手を取って膝のうえにもてあそんだ。
「わかりませんでしょうね、お内儀さんの行方は」
 おせい様が、いっていた。
 磯五は、ほっと溜息《ためいき》をついた。
「生きているというので、いろいろ捜してはいるのですが、皆目知れぬのですよ」
「お内儀さんはなくなったといい、生きていらっしゃるといい、どっちも人のうわさなのでございますからそれを確かめませんと、わたしたちは、晴れていっしょにはなれませんよねえ。困りましたねえ」
「困りました。ほんとに、こんなに困ったことはございません」
 磯五のことばに、おせい様が黯然《あんぜん》とうつむくと、磯五は、そのほっそりした項《うなじ》へそっと唇《くちびる》を持って行った。

      七

 すこしよくなるとすぐ、お高は、小石川へ帰って、一空さまといっしょに、深川かなめ橋のそばの木場の甚をたずねて行った。待っていた木場の甚は、お高にいろいろのことをたずねたのち、だいたいこれが柘植のおゆうさまのひとり娘に相違ないとはわかったが、大きな財産に関することなので、こんどは自分のほうで手をまわしてなおよく調べているからといって、一応お高を引きとらせた。
 もう半ば以上、木場の甚が預かっていた柘植家の財産がすっかりお高へくることになったようなものだが、こうして急にとほうもない女分限者になることになったものの、お高のこころは、すこしもはずまなかった。よろこびのあまり、夢を見ているような心もちになりそうなものだが、そうではなかった。ただ馬鹿ばかしい気がしているだけだった。自分は、今さらお金持ちになぞなるよりも、このままでいいと思っていた。
 が若松屋惣七のことを思うと、それだけの資財を擁して、彼とともに楽しみうる生活を考えて、お高も、こころがおどった。若松屋惣七には何もいわずに、十日ほど、金剛寺坂の家にぶらぶらしていた。
 まだからだはほんとうでなかったし、若松屋の仕事は、引き続いて暇だった。それに、お高は、おせい様とすっかり仲よしになって、江戸へ帰るときも、もし都合がついたら、すぐにも雑司ヶ谷の寮のほうへ帰って行く約束がしてあった。むこうのほうが、からだにいいことも事実であった。
 磯五が行っているのはいやではあったが、磯五が、じぶんの行くことを好んでいないのを知っているので、かえって、出かけて行って困らせてやろうという気もちも、お高には、強かった。
 若松屋惣七に話すと、若松屋惣七は快く出してくれた。もう途《みち》を知っているので、お高は朝早く、金剛寺坂を出た。
 またちょっと鬼子母神さまへお詣りして、庄之助さん方へも声をかけた。あのときはまだよく咲きそろっていなかった金雀枝が今度来てみるといっぱいに黄色い粒つぶのついた枝をたらして、まるで絵の具を点てんと落としたように、ほかのみどりのうえに浮き出ていた。
 お高は、梅雨《つゆ》さえ越せば、もう初夏が来ることを思って、金雀枝に近づいて、花のにおいをかいでみた。金雀枝の花には、何のにおいもしないのだ。お高は、それがおかしいようにくすくす笑って、それから、その、ひとり笑いに気がついて急にまじめな顔をつくって、雑賀屋の寮の門をくぐった。
 おせい様は、いそいそと迎えてくれた。思ったとおり、磯五はまだ逗留《とうりゅう》しているとのことだったが、そのときは、家にいないようすであった。おせいとお高は、すぐおせい様の居間へ行って、女同士の長ながしい挨拶《あいさつ》を済ました。
「おことばに甘えてまた押しかけて参りましてございます」
 お高がいうと、おせい様は、心《しん》からうれしそうににっこりした。
「ほんとに、そうしてお気が向いたときに、いつでもおいでになるのがようございますよ。磯五さんのお従妹さんですもの。ここは御自分のおうちとおぼし召して、何の遠慮もいらないのですよ」
「江戸のごみごみしたところから来ますと、ほんとにせいせいいたしますこと」
「ほんとでございますよ。江戸は、どんなに閑静なところでも、どうしてもごみごみした気もちがしますからねえ。こんどは長く泊まっていらっしゃいましよ」
 おせい様は、お高に庭を見せるために、立って行って、半分しまっていた障子を開けひろげて来た。座に帰りながら、いった。
「このあいだみていただいたお医者さまがおっしゃるには、あなたは、近ごろひどくお頭《つむ》をぶったことがあって、どうかすると、すぐ気を失うのが癖になるかもしれないとのことでしたので、磯五さんも私も、大変御心配申し上げていたところでございますよ。何か、すこし前にひどくおつむをおぶちになったようなことがありましたのでございますか」
「はい。そう申しますと、先日小石川の金剛寺門前町に、和泉屋というよろず屋のことで騒ぎがありましたときに、子供衆を助けようとして、何でございますか、お役人さまの馬に蹴られましたような気もいたしますけれど――」
「ああ、それではきっとそれでございますよ。いけませんでございますねえ。すっかり御自分や今までのことを、お忘れになるようなことにならなければよいが、と、お医者は、たいそう気をもんでおいででございましたが――ねえ、お高さま、若松屋さんのほうはお暇をお取りになって、ずっとこちらで御養生なさいましよ。わたしは、あなたのためなら、どんなことでもして――」
 おせい様の純情に打たれて、お高は、死のような顔いろだ。
前へ 次へ
全56ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング