は底本では「しもじん」]に、講中のための一年一度の内拝のある日であった。お高は、これへ行ってみたかった。
佐吉はさしつかえがあったので、こんどは国平をつれて行くことにした。一空さまはその後たびたび話しに来て、この鬼子母神参りのことが出たら、それは気が晴れてよいからぜひ行くようにといった。そして、近くの九老僧《くろうそう》のそばに住んでいる、庄之助《しょうのすけ》さんという相識《しりあい》の百姓を教えてくれて、そこへ寄ってゆっくり休むようにと、添書までつけてくれた。
相良寛十郎と母のおゆうとおゆうの財産の行方については、二人とも、もうあまり話をしないようにしていた。いくら話し合っても、わかることではないからだった。ただ、お高が父として知っている相良寛十郎と、一空さまがおゆうの良人として識っている相良寛十郎とは、同じ名前であっても、全然別人であることだけは確かだった。それは、外貌《がいぽう》だけではなく、性格もすっかり違っていると、お高は思っていた。
一空さまは、一空さまで、考えがあるらしかった。お高には、互いに知らない兄弟があるに相違ない。それを探し出そうというのが、一空さまの肚《はら》であった。兄弟があっても、なくても、相良寛十郎という人物が二人いたことや、お高の祖父の柘植宗庵が築いて娘のおゆうに伝えた富が消えていることや、これらは不思議として葬らるべき性質のものではなく、満足に説明さるべきだと思った。
一空さま、手近なところで、和泉屋の内幕から調べていこうと考えていた。ほかにも手がかりの心当たりがないでもなかった。むかしの愛人の娘ではあり、ことに血がつながっているので、一空さまは、そうやっていろいろ努力することを、お高に対する義務であると考えていた。一空さまじしん興味のある探査でもあった。
二十七日は水いろにかわいたのであった。それでも、空には、春らしい濁りがあって、どうかすると、濡れた微風が街道を吹いてきて、お高の襟足をくすぐるのだ。
お高は、国平とならんで、本伝寺《ほんでんじ》横町から富士見坂《ふじみざか》のほうへあるいて行った。お高は、身軽にして来た服装《なり》と、手ぬぐいを裂いて草履を縛ってある足ごしらえとで、これだけのことでも、もう十分に旅に出た気になって、楽しかった。何もかも忘れていた。忘れようとしていた。男の兄弟などないほうがいいし、母の身代を受け継いでたいそうな気骨を折ることはまッぴらだと思った。
そう思って、こころをまぎらすためにとんきょうな国平が何か面白いことをいうたびに、飛び出すような笑いを笑って、ぶらぶら歩いた。
青柳町《あおやぎちょう》から護国寺《ごこくじ》の前を通って、田んぼのあいだを行くと、そこらはもう雑司ヶ谷であった。一面の青い色が、お高をよろこばせた。一団の桜樹《さくら》が葉になって、根元の土に花びらがひらひらしているところもあった。百姓家でははねつるべの音がきしんで、子守《こもり》が二人を見送っていたりした。
大久保彦左衛門《おおくぼひこざえもん》様おかかえ屋敷の横から鬼子母神へ出て、お参詣《さんけい》をすました。鬼子母神様は、内拝につどう講中の人でこんでいた。物売りなども出て、それはそれは大変なざわめきであった。お高は、信心よりも野遊びに来たので、そのにぎわいは好ましくなかった。大行院《たいこういん》の拝殿へまわって、由来を読んだりした。
ここに納めてある尊像の出たところは、いま通り過ぎて来た音羽《おとわ》の護国寺から坤《ひつじさる》の方角に当たる清土《きよづち》という場処で、そこへ行くと、今でも草むらの中に小さな祠《ほこら》があって、はじめはここに祀《まつ》ってあった。そばに、里人が三用の井戸と呼ぶ井戸があって、この神様が出現ましましたとき、井戸のおもてに星かげが映ったとある。そこで、鬼子母神を念ずれば、諸願円満なるこというに及ばず、なかんずく赤児《あかご》を守り、乳の出ない婦人が祈るとことのほか霊応いちじるしい。
お高は、赤児と乳のことを思って、それを専念にお願い申してから、疱瘡《ほうそう》の守護神となっている鷲大明神《おおとりだいみょうじん》を拝んだ。子供が生まれて、乳の出がたっぷり[#「たっぷり」に傍点]あっても、疱瘡が重くては大変であるとお高は思った。で、まんべんなく気を凝らして祈って、鬼子母神さまの雑沓をのがれて九老僧のほうへ曲がって行った。
一空さまがつけ手紙をくれた庄之助さんをたずねて水でも飲ましてもらおうと思ってだった。
三
庄之助さんは、元気な老寄《としよ》りであった。つれあいのお婆《ばあ》さんもいい人であった。一空さまの噂《うわさ》が出たりして二人は、土間から上がって休んだ。
お高は爐ばたにすわって、庄之助さんの入れてくれる渋茶を飲んだし、国平は、黒光りのする広い台所で、飯|茶碗《ちゃわん》に地酒をもらって、うまそうにぐびりぐびり音をたてていた。青い色とにおいを持つ風が、家を吹きぬけていた。国平は、まもなく板の間に手まくらをして鼾《いびき》の声を聞かせ出した。お高が困って起こしに立とうとすると、庄之助さんもお婆さんもあおぐような手つきをしてとめた。
まわりの田畑があまりきれいなので、お高が、そのことをいうと、庄之助さんは得意げに笑うのだ。
「地主さんがわかった人ですから、わたしどもも大助かりなのです。江戸の後家さまでおせい様というのです」
お高は、過去が一時に頭の上に落ちてきたように感じて、ぎょっとした。
「江戸のおせい様といって、それは雑賀屋のおせい様でございますか」
わかりきったことをきいた。庄之助さんがうなずくとお高は、暗い心になった。識っているのかときいた庄之助さんには、ただ聞いたことのある名だとだけ答えて、お高は、いそがしく考えていた。庄之助さんは、その、お高の変化には気がつかずに、手を伸ばして、裏手の田んぼの中に木に囲まれて建っている上品な構えの家を指さした。
「あれがおせい様の出寮でございますよ。おせい様はときどきおみえになりますです。今も、保養かたがた来ておいでですよ」
お高は、きょうのせっかくの行楽と、このいい景色にしみ[#「しみ」に傍点]がついたように思われて、情けない気がした。おせい様がここの寮に来ているなら、磯五も来ているであろうと思った。そして、遠くないところに磯五がいると思うと、お高は、胸がわるくなるように感じて、すぐに国平を促して帰りたかった。
が、そうもいかなかった。お高は、国平が眠っているあいだ、そこらを歩いてくることにしてその庄之助さんの家を出た。人と話しながら、あたまの中でほかのことを考えるよりも、お高は野路《のみち》でも一人でたどって考えたいことを考えたかった。何よりも、その甘美な空気を吸って、思い切って巷《まち》を出て来た目的を存分に果たしたかった。
お高は畑の畦《あぜ》に雑草のはえている道を通って、御鷹《おたか》部屋御用屋敷のある一囲いのほうへ歩いて行った。そこらはもう畑といってもだんだん藪つづきになっていて、人に踏まれて草の倒れているあとが一すじに黒く延びているだけで、進むにしたがって両側の灌木《かんぼく》のせいが高くなって、お高はまるで森の奥へ迷いこんだような恰好になってしまった。日光が白く降り注いで、かすかな風が渡ると、木の枝を離れて虫のむれが飛び立つのが見えた。
お高は、引っ返したかったけれど、引っ返すよりは先へ行ったほうが早く街道筋へ出られるであろうと思って、そのまま進んで行った。お高は、蛇《へび》が出てきはしないかと思ってこわかった。人の気がないので裾をかかげて、ぬかるみを拾うようすで草を分けていた。白いふくらはぎが、青い葉のあいだをちらちら動いていた。
小川へ出た。冷たそうな水が、ゆるく流れているのだ。向こう側は、いっそうたけの高い藪原になって、驚くほど大きな蠅《はえ》が飛んでいた。その羽音が耳に聞こえる全部で、静かな地点であった。お高はいつまでもそこにいたかったが、その寂然《じゃくねん》としているのがかえって恐ろしくなって、いそいで、そこにかけてある独木橋《まるきばし》を渡りかけた。
それは、立ち木の朽《く》ちたのを投げ渡しただけのあぶないものであった。お高は、踏みためしてもみずにその一本ばしを渡りかけたので、真ん中でぐらぐらし出して、あとへも先へも行けないことになった。お高は夢中であった。安定をとるために腰を下げて、両腕をひろげて、右左にふらふらしていた。聞こえないまでも人を呼ぼうかと思ったが、大声を出すとバランスがくずれそうなので。どうすることもできないのだ。水の上は風があって、それが着物の前を吹きひらいて脚《あし》が出ているのを知っていたが、直そうとする拍子に落ちるような気がして、お高は風のするままに脚をあらわして泣き出したい心で立ちつくしていた。
橋のむこう岸に人影がさしたので、お高は、はっとした。あぶな絵のようなありさまの自分だから、それが男でなくて女であってくれればいいと思ったが、男であった。磯五であった。磯五は、そこの橋の上に立ち往生をして下から吹き上げる風のために面白いけしきになっている女を、お高とは知らずにゆっくりと見物しはじめたが、やがて気がついて驚いた声を放った。
「高音じゃアないか。何をそこで珍妙な芸当をしているのだ」
四
お高のことをもとの名の高音と呼ぶのは、磯五だけであった。お高は、磯五にあったのはいやであったが、いやでも、助けてもらわなければならなかった。磯五は、笑いながら向こう側から渡って来て、すぐお高の手を引いて助け帰った。
磯五は、商売物の洒落た衣類をつけて、いつもの頭巾《ずきん》の下から、瀬戸物で作ったような、すべすべする美しい顔をのぞかせていた。何か桃色の花のついた木の枝を持って、しきりに花をむしりながら、あきれたように、着物を直すお高を見守っていた。
急に眼を上げて、お高は、磯五を見返した、にらむような眼であった。お高は、磯五にじろじろ見られるのが気になって、怒っているのだった。磯五は、そのお高の視線をしっかり受けとめて、例の、深いえくぼ[#「えくぼ」に傍点]を見せて拝むような微笑になった。この微笑のためには死んでもいいと思った昔のじぶんを、お高は思い出していた。同時に、自分の装《みなり》のみすぼらしいのが、磯五の前にたまらなく恥ずかしくなってきた。
「こんなところで何をしているのだ」
磯五がきいた。
「何をしていてもいいじゃありませんか。鬼子母神さまへお詣りに来たのですよ。もう帰るのですよ」
そして、往来の見えるほうへ歩き出そうとした。
磯五は、声をたてて笑っていた。それは、忘れていたさわやかなひびきであった。不思議な魅力をもってお高の胸をついてくるものであった。ふとお高は、それにそそられているじぶんを意識した。こころに関係なく、肉体を走りすぎるおののきであった。忘れた磯五のにおいを、その笑い声がお高の中に呼び起こしたのだ。
お高は、蒼くなっている顔をふり向けた。吸われることを望んでいるように、くちびるがすこしひらいていた。
「おせい様はおめえが大好きなようだぜ」磯五が、いっていた。「遊びに寄りなよ。すぐそこの寮に来ているのだ」
「知っていますよ。知っていますけれど、顔出ししなければならないわけが、どこにあるのですか。あの、妹さんとかいう女ごろつきはどうしましたか。教えてくださいよ」
「お駒ちゃんか。お駒ちゃんは店の用で京へ行っているのだ。おれがつれて行って、おれだけ一足先に、五日前に帰《けえ》ったばかりよ。またすぐ行かなくちゃならねえのだ。高音、おめえお針のおしんに神田とかで会ったそうだが、おしんばかりじゃあねえ。誰にあっても、おれのことあいわねえようにしてもらいてえのだ。よけいなことをいうと、おめえのためにも、あの若松屋の盲野郎のためにもならねえのだから」
お高は、馬鹿ばかしいことをいうというように、黙って横を向いていた。何もいわずにいるときは、今
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