ょうまち》の勘《かん》だとよ」
「なに、鷹匠町の勘か。道理でやりやがると思った」
「勘の畜生か。ちっ、ますます生かしちゃおけねえ」
お高は、そういう荒あらしいことばを聞きながら、思った。鷹匠町というのは、これからうぐいす谷《だに》へ出て、松平讃岐守《まつだいらさぬきのかみ》さまのお下屋敷を迂回《うかい》して裏手へまわったそのへん一円の、御家人などの多く住んでいる一区劃であった。
小石川はいったい寺や武家やしきが主《おも》なので、祭礼などといっても、下町ほどに乗り気にはならないのだが、それでも、お鉄砲ぐらの手前の水道町に、金杉稲荷《かなすぎいなり》がある。別当を玄性院《げんしょういん》といって、尊敬するもの多く、いつも縁日が栄える。その近くの牛天神《うしてんじん》金杉天神《かなすぎてんじん》ともいって、別当は、泉松山《せんしょうざん》龍門寺《りゅうもんじ》、菅神みずから当社の御神体を彫造したまうとある。頼朝卿《よりともきょう》東国追討のみぎり、この地にいたり、不思議の霊夢をこうむる。元暦《げんれき》元年|甲辰《こうしん》勧請《かんじょう》。
また、指《さす》ヶ|谷《や》町にある白山《はくさん》神社、これは小石川の総鎮守で神領三十石、神主|由井氏《ゆいし》奉祀《ほうし》す。祭るところの神は、加賀《かが》の白山《はくさん》に同じ、九月の二十一日がおまつりで、諸人群集、さかんなものである。黒文字の楊枝《ようじ》と、紙でつくった弓矢をお土産《みやげ》に出した。
こういうふうに、縁日や祭礼もないことはない。町内で催し物があり、山車《だし》が出る。年によっては、御輿《みこし》が渡御する。それはいいが、お祭に喧嘩《けんか》はつきもので、ふだんからいがみ合っている一町と一町が、事につけ物に触れ、あらそいの種をつくって、些細《ささい》なことから血の雨を降らすようなことも、めずらしくない。
この、金剛寺門前町と鷹匠町がそれで、昔から、犬猿《けんえん》のあいだがらだったから、やれ、縁日の縄張《なわば》りがどうのこうの、祭の割り前が多いのすくないのと、しじゅうごたごたをつづけている。それに、若い者は血が多い。祭の雑沓《ざっとう》の中で、毎度斬ったの張ったのと、だいぶ物騒であった。
鷹匠町の者で、門前町へ来てなぐられずに帰ったものはない。こっちでも、誰か何か用があって鷹匠町へ行くときには、喧嘩支度で隊を組んで出かける。なかには、水さかずきをして行く。それほどでもないが、とにかくにらみ合って来た。
その敵方の鷹匠町に、ひとりとほうもなく勇敢なのがいて、これにだけは、門前町のあぶれ者も手を焼いていた。それが、湯屋の三助をしている勘であった。その勘が、いま和泉屋の屋根から瓦をほうっているというのだ。
瓦は、続々投げられている。すきをねらって、通りへ駈け出そうとするものも、ためらっているのだ。お高は、勘はきっと、和泉屋に頼まれたわけではないのであろう。こっそり群集にまぎれこんでいたのが、いつもの意趣晴らしに、和泉屋の屋根へあがって、ああいうことをしているに相違ない。
それにしても、この騒動とは何の関係もない他町の者が、ひどいことをすると、お高は思った。そして、こうして死人が出るほどの挑戦をされた以上、門前町の人も、黙ってはいまい。勘がただで済まないのはもちろん、ことによると、大挙して鷹匠町へ押し寄せるようなことになるかもしれない。
金剛寺のほとりに住むもののひとりとして、お高がひそかに義憤を発しながら、一方、いつ若松屋へ帰れることであろうと、いよいよ不安の念をふかめていると、群集の中から、すさまじい歓声が生まれた。
四
屋上に仁王立ちになって、まだ瓦を投げおろしていた勘が、ふいと足でもすべらしたものか、その瓦の一つのように、ずずずと屋根をなでて、地ひびきをたてて往来の真ん中へ落ちてきたのだ。そのまま起きあがらないから、腰でも抜かしたのだろうと人々が走り寄ってみると、みなびっくりしてしまった。勘は、右の肩から胸まで一|太刀《たち》に斬り下げられて死んでいた。
それにしても、いつ誰がどこから上がって行って斬ったのかだれにもわからなかった。一同はわいわい立ち騒いで和泉屋のことよりも、勘の一件が、問題の中心になってしまった。
さっきの若い武士は、いつのまにかお高のとなりへ帰って来ていた。不愉快そうな、むずかしい顔になっているのが、糸屋のもれ灯で見えた。黙って羽織の袖をとおして、仲間のそろえた履物を突っかけると、群集が、路《みち》のまん中の勘の死骸《しがい》をとりまいているので、周囲のほうは稀薄《きはく》になりつつある、そのまばらなところを縫って、ずんずん行ってしまった。主従とも終始無言で、ことにさむらいは、きたないものでも見たように、いやな顔をしていた。
侍が立ち去って行ったので、自分も行けるかもしれないと思って、お高は、歩き出した。
が、ぎょっとして足をとめた。また、通りの向こうに人々の叫び声が沸き立ったのだ。それにまじって、くつわの音がする。馬のいななきが聞こえる。ふりむいて見ると、山のような黒い物が、かぶさるように突進してくる。馬だ。十人ほどの役人が、騒ぎを聞いて馬で駈けつけて来たのだ。手っとり早くしずめるために、遮二無二《しゃにむに》この群集の中へ馬を乗り入れて、蹴散らそうとかかっている。
ひずめにかけられてはたまらない。人は、算を乱して右往左往する、お高も、走った。が馬は早い。すぐうしろに、馬の鼻息を感じたとき、彼女は、じぶんとならんで逃げている一人の女の児に気がついた。とっさではあったが、何だか、きょう洗耳房で見たことのある児のような気がした。その児は、つとお高を離れて、路地へでも駈けこむつもりだったらしい。往来《みち》を横切ろうとした。その上へ、馬が来た。
お高の見たものは、馬の下になって額部《ひたい》から血をふいている子供の顔であった。お高は、自分のからだが、そっちへのめったのを覚えている。何か重い固い物が、あたまの上へのし[#「のし」に傍点]かかってきたのまでは意識しているが、あとは、天と地が逆になって、周囲が、お高のまわりで急旋回した。それだけの記憶だ。
お高は、水のにおいをかいだ。
誰かが抱きかかえて、誰かが、彼女の口へ水を注いでいるのだ。襟元《えりもと》がひろげられて、水が、乳のあいだを伝わって、濡らした。お高は、眼を上げた。お高は、一空さまによりかかっているのだった。水を飲ましているのは、屋敷の滝蔵だった。
「ありがとうございました。ほんとに、もうようございます」
そういうと、不思議に、ほんとに何ともないような気がして、お高はたち上がろうとした。すこし、足がふらふらした。
ぼろぼろに着物をやぶいて、奮闘の名残《なごり》をとどめた男がふたり通りかかった。
「おい、この姐《ねえ》さんだよ。お留坊《とめぼう》を助けたのは。いまみんな話し合っていたろう?」
お高を指さして、立ちどまった。滝蔵が、お高に肩を貸そうとしていた。
「あぶねえところだったのです。わっちがお迎《むけ》えに来たときは、もうあの人で、どこにいなさるか、探すこともできねえ始末だ。心配しましたよ。馬に蹴られそうになった子供を助けて、女が気を失っているというから人をわけて来てみたら、お前さまだったのです」
「理窟《りくつ》ではできることではない」一空さまが、うけ取った。
「えらかったな、お高さん」
一空さまは、お高を誇って、ほそい眼をかがやかしているのだ。お高は、この坊さまは、世の中にたった一人のじぶんの親身なのだと思い出して、できることなら、いきなり取りすがって泣き出したかった。
金剛寺門前町には、まだ人出が引いていなかった。が、それは、一段落ついたあとのしずかさに、あった。近所の人々が、騒ぎのあとを見て歩いたり、いつまでも立ち話をつづけていたりして、なかなか家へはいらないのだった。
和泉屋の前は、引き出された商品のこわれが、こなごなに踏みつぶされて、足のやり場もないほど散らばっていた。おもての雨戸はすっかり破られて、家内《なか》も、空家《あきや》のようになっていた。ところどころ壁まで落ちて、まるで半倒壊のありさまだった。
お高は、滝蔵に助けられて、そこを歩いて行った。一空さまは、門前町の端まで送って来て、そこで別れて、洗耳房へ帰って行った。白い月光の中に、通行人をあらためる町役人の集団《かたまり》が、黒かった。提燈の灯が、かどかどに揺れうごいていた。
五
どこも、怪我をしてはいなかった。が、興奮のあとの疲労が、お高を病気のようにした。若松屋惣七がいろいろ心配をして、お高は、居間に床をとって寝かされていた。若松屋惣七は、じぶんで看病もした。
午《ひる》下がりに、一空さまが、見舞いの菓子折りなどをぶらさげて、たずねて来た。前の晩と同じに、お高を自慢するように、眼を光らせていた。お高は、床の上に起き直って、いつものさびしいところの見える微笑で、一空さまを迎えた。
一空さまは、お高の英雄的行動をすっかり聞かされて来て、はいってくるなり、お高をほめちぎった。お高は、そのことをいわれるのが、くすぐったかった。話題をかえて、ゆうべはぐれ[#「はぐれ」に傍点]てからの、一空さまのことをきいてみた。
「まあ、離れて見物しておった。面白かった」
一空さまは、そう冷々淡々と答えて笑った。が、すぐ真顔にかえって、つづけた。
「そんなことより、きょうはちと話したいことがあって来たのじゃ」
お高の熱心な視線が、一空さまの顔に凝った。お高は、一空さまはきっとまた母のおゆうのことを話しに来たのであろうと思った。
お高は、父の相良寛十郎が少しも母のことを話さなかったのみか、お高のほうからきいても、いつも避けるようにするのが、父の生きているころから、不服でもあり、不思議であった。今でも、そう感じていた。生母のことを詳しく知らないのが、情けなかった。誰かと、しみじみ母のことを話し合いたかった、だから、よく母を識《し》っているという一空さまの訪問は、お高にとって、いつでも歓迎すべきものだった。
ことに磯五といっしょになってからは、まもなくその磯五とこうして別居したり、あちこち奉公した末この若松屋へ来て、近ごろは、またその磯五があらわれてあんな事件がつづいたりして、昔はよく顔を知らない母を想って泣いたものだったが、ここしばらく、忘れるともなく、忘れていたのだ。
そこへ突然、母の遠縁に当たって、いろんな事情を知っているらしい、一空さまという人が現われたのだ。母の人間と、その生活と死とは、すべてこの人が話してくれるであろう。一空さまは、自分の知らない母の顔を見、声を聞き、手に触れ、そして母を恋した人なのだ。何と、信じられないほど不思議なことであろうと、お高は思った。
が、一空さまの用というのは、単純なことではなさそうである。やっと切り出した。
「うむ。おゆうさんのことじゃが、あんたにも、いや、柘植という家《うち》にかかわりのあることだ。してまた、これは、あの和泉屋の件でもある。じつに、奇妙なことになりましたわい」
お高には、意味がはっきりしなかった。
「和泉屋と申しますと、ゆうべの騒ぎを起こした、あの和泉屋でございますか」
「さよう。あの和泉屋じゃが、あの和泉屋とは限らぬ。江戸の和泉屋である。いま、人に調べさせたのじゃが、江戸中に、和泉屋は十七軒ある。みな日常の雑貨をひさぐ万屋で、知らん者が多いようだが、ことごとく一つの店なのだ。つまり、和泉屋という看板をあげた家は、すべて一つ店で、分店が江戸中に散らばっておる。門前町に新規にあけて憎まれたのも、そのひとつじゃが、何とも盛んなものだな」
「けれど、その和泉屋が、母とどういうつながりがあるのでございましょう」
「どういうつながりもこういうつながりも、和泉屋は、おゆうさんのものだったのだ。おゆうさんのものだから、したがって、今はあんたのものじゃ」
お高は、いまに一
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