ますもの」
「しかし、この、昔からの金剛寺門前町の商人を、見殺しにするということもできんでの」
「それもそうですけれど、でも、わけのわからないならずもののような人を狩り集めて、通る人に迷惑をかけたりしては、せっかく味方についていた者まで、いやになりますでございますよ」
「とにかく、乱暴を働くのは、間違っておる」
「そんなことを大きな声でおっしゃると聞こえますよ」
話しながら、人を分けて歩いて行った。それはもう文字どおり、かき分けなければならないほどの人ごみになっていた。夕やみの落ちてくる街上に、赤く逆上した顔が、浪《なみ》のようにもみ合いへし[#「へし」に傍点]あいして、押し返していた。あわただしい叫び声が、そこにもここにも揚がった。その中を、男伊達《おとこだて》風の連中が、隊を組んでねり歩いていた。
いつのまにか、ぎっしり往来をうずめて、身うごきもならない人出だ。みんな血走った眼をして、顔じゅうを口にしてわめいているのだ。近くの武家屋敷から警備に出た仲間《ちゅうげん》たちや、御用火消しなどのいかめしい姿が、人浪のあいだにちらほら見えていた。金剛寺の若い学僧たちも、肩をいからして、道ばたに立ちならんでいた。一空さまは、彼らと顔が合うと、大声に笑って、二人の女をまもるようにして歩いて行った。
「餓鬼どもは、事なく通ったろうな」
「ええ。子供ははしっこいから、駈け抜けたでございましょうよ」
そこは、和泉屋の前であった。
多勢で大戸をおろす音が、戦争か何ぞのようにあわただしく聞こえていた。と思うと、一時に恐ろしい叫喚が生まれて、あっというまに、非常な力で、群衆が和泉屋へ殺到しだしたのだ。
それに押されて、お高は、骨が折れるかと思ったとき、つれのふたりが、人ごみに呑まれ去っているのを知った。
群集
一
それは、海の面《も》を風が渡るような速さだ。動乱する人の渦にまきこまれて、一空和尚と、その洗耳房の小母さんと呼ばれている、学童たちの世話をするお由さんとは、すぐに底に没してしまっていた。お高は、和泉屋の店頭《みせさき》へ雪崩れかかる人浪と、それをくいとめようとする火消しや、鳶のあいだにはさまれて、椿《つばき》の花が散り惑うようにほらほらと立ち迷った。口ぐちにわめく声が、地うなりのようにお高を包んだ。
「この金剛寺門前町を他町の者に荒らされて、黙っちゃいられねえ」
「昔からのおれたちの商売をどうしてくれるんだ」
「卸し同様の相場はずれの値で張り合って、この辺一帯の小あきんどの口をほそうてんだ。和泉屋は人殺しだ」
「そうだ。和泉屋は人殺しだ」
「やい、人殺し」
「和泉屋をたたきつぶせ」
「門前町から追ん出せ」
「家《うち》ん中へ踏んごんで、品物は、困る者にわけるんだ」
「店のやつらは簀巻《すま》きにして、江戸川へほうりこめ」
そこここにもみあいがはじまった。群集の一部は、素っ裸にねじり鉢巻《はちま》きをした若い衆を先頭に、警戒を破って、和泉屋の大戸へ接近した。和泉屋は、もうすっかり戸をおろして、店員たちは裏口からでも逃げたらしく、家の中はしいん[#「しいん」に傍点]としていた。
お高は、夏の宵の蚊柱がくずれるように、ぶうんと音を発して飛びかわす拳《こぶし》や下駄《げた》や、棍棒《こんぼう》の下をくぐって、しなやかな手をふって逃げまわっていた。逃げまわりながら、その和泉屋襲撃の先達をつとめている、すっ裸の若い衆が、いつも来る酒屋の御用聞きであるのをみとめて、妙にふっと、おかしくなった。彼の背中には、一めんに大きな牡丹《ぼたん》の花の文身《いれずみ》が咲いていた。
叫び声は、いっそう高くなった。顔いっぱいに口がひろがっている化け物のような人の顔が、お高の視野をうずめていた。お高は、やっとのことで、和泉屋の隣の糸屋《いとや》の軒下へ走りこんだ。そこには、騒動を見物する人が、土間まではいり込んでいた。お高を見つけた糸屋の若いおかみさんが、人をかき分けて出て来た。
「まあまあ、若松屋のお高さま、どうも大変なことになりましてございますねえ」おかみさんはおどおどして、声がふるえていた。「飛ばっちりをくってはたまりませんから、なかへおはいりなさいましよ。もうすこし鎮《しず》まりましてから、小僧をつけてお送りいたしますよ」
おかみさんが夢中でぐんぐん引っぱるようにするので、お高はよっぽど、しばらくこの糸屋の店に避けていようかと思ったが、もしこの騒ぎから火事にでもなったときのことを思うと、一刻も早く金剛寺坂の家へ帰っていたかった。お高が、そういって辞退しているとき、めりめりと板の割れる音がして、はじけるような喚声が揚がった。
「やった、やった」
「戸をこわしたぞ」
「続いて押しこむんだ」
「和泉屋のやつは鼠《ねずみ》一匹も逃がすな」
糸屋のおかみさんは、おおこわいといって、お高を離れて店の奥へもぐりこんで行った。和泉屋では、いま飛びこんだ人たちが戸障子を蹴倒したり、商品をこわしたりする音が、ものすごく聞こえていた。
あとからあとからと押しかける群集で、暗くなりかけた路上は、身動きもならない。八百万《やおまん》の若い者や、角の夜駕籠《よかご》かきや、町内のばくち打ちなどの威勢のいい連中が、めいめい獲物をふりかざして、和泉屋に頼まれて警戒に来ていた他町の鳶の者と渡り合っていた。
どさっ[#「どさっ」に傍点]と濁った音をたてて、棒が人の頭上に落ちたり、うす闇黒《やみ》に鳶ぐちがひらめいたりするたびに、お高は、両手で顔をおおった。それでも、糸屋の軒下に押しつけられて、人の肩ごしにのぞいていた。
とめに出ていた金剛寺の学僧たちや、町内の世話役なども、手の下しようがなくて、怪我をしない用心をしながらただ見物していた。月番家主らしい羽織を着た老人が、縦横に人をわけて走りながら声をからしてどなっていた。
「火の用心だけあ頼むぜ。いいか。火の用心を忘れめえぞ」
誰も、耳をかすものはなかった。
二
混乱の上に、夕風が立った。暴動――それはもう暴動といってよかった――は、拡大する一方である。この、戦争のような地上に引きかえて、空は、残映から夜へ移ろうとして、濃紺と茜《あかね》との不可思議な染め分けだ。ゆうやけは徐々に納まって、水のような深い色が、ひろがりつつある。白い月だ。星も、白いのだ。
薄暮が落ちてくるにつれて、お高は、だんだん恐怖を感じ出した。この騒ぎがいつまでもつづくようだったら、じぶんは一晩じゅう家へ帰れないで、ここに立ちつくさなければならないのだろうか。その不安だ。お高は、蒼い空気の中で、土を蹴って馳駆《ちく》し狂闘している人々を、なさけない眼で見はじめた。
すると、一時にあちこちにわめき声が起こった。いつのまにか一人の男が、和泉屋の屋根をはっているのだ。その男は、夜盗のような身軽さで、山形になっているてっぺんへ上って行った。群集は、はじめ仲間のひとりであろうと思って、下から歓喜の声を吹き揚げて声援した。男は、腰から、何か道具のような物を抜きとって、瓦をはがし出したので、群集はいっそうよろこんだ。
ところが、そうして喝采《かっさい》している群集のうえへ、いきなりその瓦が舞い落ちてきたのだ。瓦に打たれた者の悲鳴が、けたたましい笑い声のように、長く尾を引いた。打たれたのは、群集中の少年であった。人々は、地面が割れたように飛びのいて、屋根をふり仰いだ。そこへ、屋上に突っ立った男の手を離れて、二枚、三枚、四枚と、つづけさまに瓦が落下してきた。
それは、眼まぐるしい速力で矢つぎばやに飛んでくるのだ。しかも、往来の、各ちがった方面へ落ちてくるので、群集は、本能的にあたまをかかえて散り出したものの、全く逃げ場がないのだ。見るまに、そこここに瓦に打たれて倒れたり、うずくまる者が出てきた。
地におちた瓦は、炸音《さくおん》をたてて割れ散った。人々は、怒号と叫喚のうちに、たおれる者を踏み、よろめく者を排して、皆、和泉屋の側の家なみの下をめざしてわれ勝ちに游《およ》いだ。
それは、津浪がくずれかかるような、力強いひしめきであった。あとの路上は、瓦を脳天にくらった者の即死体や、肩を割られてうずくまった者のうめきや、それらの者をかかえて走ろうとする肉親の人や、逃げ遅れてうろうろする者の姿のほか、掃《は》いたように、一度に無人になった。
お高は、火に油をそそいだように激昂の度を増した群集に、糸屋の軒下へ押しつけられて、呼吸が苦しくなった。胸わるさがこみ[#「こみ」に傍点]あげてきて、眼まいを感じ出した。が、いまは誰も、ひとりの女なぞに構っている者はなかった。ののしりさわぐ声が、群集ぜんたいにどよめいていた。
「ふてえ野郎だ。誰だ」
「和泉屋の用心棒に相違ねえ」
「おれは初め、町内の者かと思った」
「おれもそう思った。屋根を登る恰好が似ていたから、火消しの鉄公《てつこう》だとばっかり思ってた」
「そうよ。鉄っぺにそっくりだったなあ」
「何せ、この仕返しをせにゃならねえ」
「引きずりおろして、なぐり殺そうじゃねえか」
「おい、誰か上がれ、上がれ」
お高は、そういう話し声が、だんだん遠のいてゆくような気がした。ほの白い、幕のようなものにへだてられて、すべてが、夢の中へとけこんでゆく感じだ。無意識に、となりの人の腕をつかんでいた。
腕をつかまれた隣の人は、お高を見かえった。その人は、白い顔をした、二十五、六の武士であった。裕福とみえて、せいの高いからだを、凝った流行《はやり》の衣裳《いしょう》で包んでいるのが、芝居に出る侍のようであった。帯刀の金の飾りが、ちらちらときらめいていた。
「お女中、御同様とんだ難儀だの」
と、いった。そして、向こう側の、供らしい仲間《ちゅうげん》をかえりみて、笑った。お高は、気がついて、あわてて手を引っこめた。その士《ひと》は、用たしの帰りにでもこの騒擾《そうじょう》にまきこまれたらしく、かえりを急ぐとみえて、いらいらしていた。仲間は、手の、定紋入りの提燈《ちょうちん》をこわすまいとかばって、骨を折っていた。何かいって笑ったが、お高には聞こえなかった。
まだ少年々々している武士の顔が、またお高のほうを向いた。
「手を放すには及ばぬ。しっかりつかまっているがよい。総じて、かような場合には、人の力にさかろうてはなりませぬ。流れに乗った気で、水のごとく、人の押すほうへ押されてゆくのだ」
あはははと笑った。お高は、気やすなお武家だとは思ったが、それかといって、さようでございますかと甘えて、また手を出して腕へつかまることはできなかった。はい、とこたえたつもりだったが、答えたのか答えなかったのか、自分でもわからなかった。彼女は、そこに人にはさまれて立ったまま、気をうしないかけていた。ただ、一空さまと、あの洗耳房の小母さんはどうしたであろうと、瞬間考えた。
三
ぞくっと、寒さが走って、気がついた。屋根からはまだ瓦が降りつづけていた。お高の周囲の人々も、大声にさわぐだけで、誰も、屋根へ上がって行こうとする者は、ないようすだった。
「これはいかん。これでは、いつまでたっても屋敷へ帰れぬ。夜が明けてしまう。まず、あの屋根の上の男を何とかせねば――」
というのが、お高に聞こえた。となりの、色の白い武士の声だった。彼は、そういって、なにか思案しているふうだったが、何事か思いついたとみえて、面白そうに笑って、仲間へささやいた。仲間は、びっくりして、あわてた大声を出した。
「いけません。殿様、そんなことをなすってはいけません」
「なあに。お前は、ここに待っておれ。すぐ帰る」
侍は、さらりと羽織をぬいで、面くらっている仲間の手へ押しつけて足袋《たび》はだしになった。しかたがないので、仲間がその履物《はきもの》を拾い上げて、ふところへ入れたとき、さむらいのすがたは、もう人をかきわけて消えていた。
ことばが、群集の上を、伝わってきた。
「おい、あの野郎は、鷹匠町《たかし
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